国民性と宗教観 ② | 元J民の色々考察ノート

元J民の色々考察ノート

思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

ある豪華客船が航海中に沈みだした。

しかし、脱出ボートの数が足りないので、

船長は、乗客たちに自主的に海に飛び込むように仕向けた。

船長がそれぞれの外国人乗客に対して言った言葉。
 

アメリカ人には 「飛び込めばヒーローになれますよ

 

イギリス人には 「紳士ならば海に飛び込むべきです」

 

フランス人には 「決して海には飛び込まないでください」

 

日本人には      「みなさんはもう飛び込みましたよ?」

 

 

前回の記事では、

 

欧米人は、自分の意思と力で正義を実行することを正義と考え、

 

日本人は、大衆の共有する道徳心や倫理観に従い、全体の秩序を維持することを正義と考える

 

傾向にある、という話をしました。

 

「自分が何を正しいと考えるか」よりも

「自分を取り巻く社会が何を正しいと考えるか」を優先する日本人の正義感には、

重大な短所もある。

 

 

主体的に行動できない。

主体的に行動できない人間が集団で固まって、

現状の秩序を維持しようとし続けるから、

悪い状況を打開する力が決定的に欠けている。

 

「出る杭は打たれる」という言葉通り、

自分の主義主張を押し通すために自分を前面に押し出すことで

周囲から廃絶されることを恐れるから、

納得いかなくても理解できなくても

妥協して従順に従うことをみずから選ぶ

こういう環境は、「上」が腐っていたら、全体も腐っていくがままです。

 

 

日本の「報道の自由度」は、主要7か国(G7)の中で最下位を維持しています。

 

某アイドル事務所の性被害、

大手企業のパワハラ問題、

政治家の裏金やら脱税、

カルト宗教。

 

当事者や関係者の多くが昔から問題点を認知していたことでも

目立つ事案が社会に大きな影響を及ぼすまでは、なかなか事態が進展しません。

しかし、ひとたび「世論」が動けば、たくさんの人々が多数派という「勝ち馬」に乗るので

そこではじめて「民意」が数の暴力となるのです。

 

 

 

日本人は遵法精神が高い。

秩序を維持することを美徳と考え、自らの意志で規律に従うことに最善を尽くす。

これは誇っても良い点だと思います。

 

ただ、こういう性質は、

「周りのみんなに合わせたい」

という思想の影響も否めません。

 

 

大きな問題に直面した時、

自分一人では声を上げる勇気は出ない。

自分の正しさを堂々と公言できるほどの自信が無い。

同調してくれる人が増えることに対する希望よりも、

多くの人から敵視されることに対する恐怖が上回る。

 

まあ、これは自分自身の性格を投影したレッテル貼りでもあるんですが。

 

 

 

冒頭の話に戻ります。

 

良く言えば「主体的に行動できる」

悪く言えば「個々の我が強い」西欧人。

 

良く言えば「従順」

悪く言えば「長いものに巻かれる」日本人。

 

それぞれの地域に根差した宗教観は、

それぞれの需要に合ったものであるように思います。

 

 

キリスト教もとい一神教において、善と悪を決定するのは

「絶対的な主権と正当性を持つ」万物の創造主です。

「力」においても「正しさ」においても「人間では決して敵うことが無い存在」

「設定上」反論の余地を許しません

我の強い人々や、多種多様な人種を無条件で従わせるには、極めて効果的です

そして信仰の最終的な目的は「神」の意志に従うことによる魂の救済(天国に行ける)です。

「上の存在」に従えば救われ、従わなければ裁きを受けるという極めてシンプルな二者択一。

これは「結果」を重視する、合理的な考え方と言えるでしょう。

(カトリックは「善行」、プロテスタントは「信仰」によって救済される、というおおまかな

 分け方が存在する)

「仏教」にも「ほとけさま」なる信仰の対象は存在しますが、

一神教のような「絶対的な上下関係」とは性質が異なります

信徒は生涯を「修業と実践」の場と考え、みずから悟りや解脱を成し遂げることによって

「成仏」つまり「仏」になることを目的とするものです。

「神」が中心というより、「自分自身」が中心なのです。

これは「力の強い存在」が「正しい選択」を要求する教えとは性質が異なり、

人に「自発的な成長」を促す、人生という「過程」を重要視していると言えます。

 

保守的なクリスチャンは絶対に受け入れたくないと感じる考え方かもしれませんが、

 

私は、西洋という土壌にはキリスト教の宗教観が適しており、

東洋おもに東アジアや東南アジアには、仏教の宗教観が適していると思っています。

 

「それぞれの人種の需要に合った宗教が与えられた」なんて考えるとしっくりくる。

もっとも「神」や「仏」のような人外の存在を無いものとして見れば

「宗教が長い年月をかけて気質を形成した」という結論に行きつくのかもしれない。

 

「弱いものに施しを行いなさい」「有害な欲望は捨てなさい」「無駄な殺生はいけません」

いずれもこうした「正義」を説いているのは変わりません。しかし、

「神」の「命令」に「従順に従う」ことで救済されるという「結果」を目的とするか、

「仏」になるために「自分」を「成長」させるというという「過程」を目的と見るか、

性質は似て非なるものです。

 

 

 

日本人がアメリカ人と同じ食生活をしたら糖尿病にかかるリスクがある。

 

アメリカ人が日本人と同じ食生活をしたら腎臓に不調をきたす恐れがある。

 

という話を聞いたことがあります。

これが嘘か誠かはともかく、「適材適所」という考え方は体質のみならず、

文化や思想、そして宗教にも当てはめられます。

 

「自身の成長」を促すような教えは、反抗的な人々を改めさせる効果は薄いでしょう。

一方、「絶対的な唯一神」からの教えは、一切の反発を認めない「司法」に近いので、

我の強い人々には効果的ですが、力の弱い人を「弾圧」する「凶器」にもなりえます。

 

ある地域の宗教観を、そのまま他国に広めれば、

その宗教観が現地の人間に適していないために、問題が生じる可能性があるということです。

 

 

その如実な例が、エホバの証人です。

この宗教は、古来持ち込まれた仏教のように日本人の需要に合わせて形を変えることはなく

アメリカの世界本部が発行する教材がそのまま用いられており、

元々アメリカ人がアメリカ人のために生み出した教義に、服従することが求められています。

アメリカ人の宗教観が「そのまま」持ち込まれ、日本人が「そのまま」従うという構図は

宗教2世問題をはじめとする多くの厄を生み出しました。

 

 

 

私は日本人にとって最も相性の悪い宗教だと思っています。