見知らぬ特攻機のおじさん① | H2のブログ

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いつの頃からか私の左側の意識に、

零戦に乗ったおじさんが現れた。


典型的な暗緑色の機体に日の丸。単座。

風防が開いていて、

おじさんの斜め横顔がはっきりと分かる。

知らない方。

若い風貌ではないのでベテラン搭乗員か。


ボアのある飛行帽を被っている。

操縦桿を両手で握り、

目は真っ直ぐ前を見据えているが、

どこか遠い目をしている。

表情はない。


機は水平飛行をしていて、

表情から目標はまだまだ先という感。

薄水色の空を背景に飛び続けている。




それよりずっと前に夢を見た。

桃の花が満開な桃の木林の上空を

暗緑色のプロペラ機が低空飛行で飛ぶ。


飛行場を飛び立って一度戻り故郷に

さよならを言うような感覚だった。

特攻機の出撃だと直感した。


桃の花だと分かったのは、

花のピンク色が濃かったのと花弁の大きさ、

緑色の葉っぱも同時に生えていたことから。



桃の印象と特攻機から調べてみた。


台湾に桃園飛行場という陸軍の飛行場が

あって少なくとも沖縄戦に特攻機が出撃

した事実があったらしい。

同じ桃園区には八塊飛行場も同様にあった。


ただ、台湾桃園又は八塊から出撃した

戦闘機の種類として零戦の記録はなかった。

一式戦又は四式戦の記録はあるので、

似通った印象の零戦と思い込んでしまった

のかもしれない。

また、零戦は直掩機としての使用が多かった

ようなので搭乗員の年齢からも直掩機で

あったのかもしれない。




20代の頃、何故か台湾に行きたいと

思い立ち、大阪南港から沖縄を経由して

台湾への船旅をしたことがあった。


今はもうない大阪〜那覇〜台湾の航路は、

遠く沖縄戦時に沢山の特攻機が辿った

道筋だったのだとようやく思い返された。


大阪〜那覇に2泊、那覇〜基隆(台湾北部)

に1泊、途中、宮古島に寄港し、基隆の

開港が朝6時だったために西表島沖で

長い時間停船し、時間調整をしていたことを

思い出す。



船員たちは皆釣りをし始め、私にも竿を

貸してくれた。

1匹目は地球を釣り、針を再度つけて

もらって、カワハギに似た色鮮やかな

青い魚を釣り上げることができた。

調理場で刺身にして下さった。美味だった。

私の誕生日だった。

その時の夕日が忘れられない。


帰りは高雄(台湾南部)を出航し、

石垣島に寄港し、入国審査だったと思う。

台湾や那覇で野宿をしたことも懐かしい。



30年前のあの当時、まだ、戦時下の日本軍

の行為による加害者意識というものは

割と強く社会にあった。


台湾で日本が植民地化したことを

私がどなたかに謝ったことがあった。

しかし意外にも、日本統治時代はインフラも

教育も治安も良くいい時代だったと

おっしゃった方がいた。

お一人の見解だったが安堵した。




15年前の鬱による2年半の休職からの

復職は厳しかった。


年間3万人を超える自殺者が出ていた時代。

次に休職になれば…。

次に異動になれば…。

自分も危うい。真剣に考えた。

ならないように必死で仕事にしがみついた。


抗うつ剤が効いて余裕が出来れば、

その余裕を仕事で埋める。

その繰り返しで何とか'成果'を上げた。

無理は、愚行、奇行、情緒不安定を生じ、

家族に度重なる精神的加害を加えた。


その悪循環も限界を迎え、

積み上げてきた幻想が全て一気に崩れた。


抗うつ剤を飲みながらの猛烈業務の日々は、

土日も祝日も思考の止まらない

'月月火水木金金'だった。

'集団的弱肉強食'は武器が弾から金に

変わっただけ、

人がそのために平気で犠牲にされる、

第二次世界大戦と同じように感じていた。


私にとっては毎日が出征旗を掲げた通勤

であり、仕事場では突撃を繰り返し、

倒れた先人を踏み越えて突撃する'戦中'

そのものだった。私にとっては。



'国を守る'と特攻機で突入していった彼らに

今の日本を見てもらいたいと思っていた。



「同じ過ちを何度も繰り返す人間の悲しみ」



そんな時に現れて私の横に並んだのが

特攻機のおじさんだった。




先日のヒプノセラピーを終えて数日後、



「おじさん、もう戦争は終わったよ」

「私の戦争も」


「もう故郷に帰ったら」



と伝えた。



すると、1年前に抗うつ剤を一気に断薬

した時、その無表情が私の方を笑顔で

見てくれるように変わっていたおじさんが、

急に'ガン'っと、

両手で力強く操縦桿を右に倒した。

零戦はスーッと遠く下方へ滑るように

急降下して去っていった。


そして、どこかの海岸沿いに着陸したのか、

機を離れて浜辺に一人立って上空の私に

向かって、操縦手袋をつけた手で大きく

大きく満面の笑顔で手を振ってくれた。

ずーっとずーっと…。



降下して行く際見えた飛行機の灰空色の

腹面には爆弾又は増槽がなかった。

直掩機が増槽を切り離した後の

帰路だったのかもしれない。

特攻機だったら爆弾を切り離す必要は

なかっただろう。

単機だったのも合点がつく。

とすれば特攻隊の行く末を見届けた後の

遠い目だったのかと、あの目を想った。

さぞ辛く悲しい光景であったろう。

※参考



けれどおじさんが最後に見た光景として

浮かんだのはいく筋かの機銃の光跡だけ。

感情も伝わってこない。

気づかぬ間に亡くなったのか?

分からないがおじさんはなぜ飛び続けて

いたのだろう…。



この記事を書いている途中、

何度も記事が消えてしまった。

書き足りないのか、何度も上に戻った。


どうしてだろうと思っていたけれど、

おじさんが先ほどおっしゃった。



「社会の構造は変わっていないけれど、

 自分で'選択できる'時代になったんだね。

 教えてくれてありがとう。」



この言葉に教えてもらったような気がする。



同じ悲しみを繰り返しながらも

少しずつ人や社会は成長している。

そういう意味では良いも悪いもなく、

苦しみや悲しみを持ち続ける必要もない、

ということを。



おじさん、こちらこそありがとう。

一緒に闘ってくれて。寄り添ってくれて。


涙を自由に流すことができる時代に

なったんたね。さようなら。ありがとう。



この初夏に蛍を観に行ったのも偶然では

なかったのかな。



桑田佳祐さん「蛍」


※参考 

陸軍特攻 誠119飛行隊(桃園飛行場)

以下HPよりお借りしました。



今日もありがとうございました。