職場でAIを使い始めた頃は、正直よくわかっていなかった。
でも、なんだか便利だった。
少し触るだけで、
文章が出てきて、
整理されて、
考えを返してくれる。
「仕組みは知らないけど、これはすごい」
そんな感覚だったと思う。
そこから急に、のめり込んでいった。
GPTsを知って、
AIを“調整できる”感覚を覚えた。
友人の個性に合わせたAIを作ったり、
サウナみたいに“熱さを耐える感覚”で思考を追い込むAIを作ったり、
発想を飛躍させるAIを試したり。
かなり遊んでいたと思う。
でも、その遊びの奥には、
ずっと同じものがあった。
「ことばになる前の感覚を、AIにつなげられないか」
という期待だった。
最初の頃は、
言葉がなくてもAIと通じ合える気がしていた。
社会的弱者とAIをつなげたいとも考えたし、
医療的ケア児の親の苦しさを、
少しでも軽くできないかとも思った。
たぶん、
“理解される感覚”を作りたかったんだと思う。
でも途中で、
どうしても越えられない壁が出てきた。
AIは、
言葉でしか接続できない。
言葉にした瞬間に壊れる感覚がある。
説明した瞬間に、
別物になってしまう感覚だった。
まだ形になっていない感情とか、
説明すると違ってしまう感覚とか。
そういうものを、
AIに渡そうとすると崩れていく。
その頃から、
少しずつAIの仕組みも理解してきた。
そして気づいた。
AIには、
理解なんてない。
こちらが勝手に、
「理解された」と感じていただけだった。
でも会話が成立している感じがあるから、
どうしても人格を感じる。
問い返すと答えるし、
矛盾を指摘すると整えようとする。
だから余計に、
“わかっている存在”に見えてしまう。
自分自身、
AIとの距離感をうまく保てなくなって、
体調を崩し、休職することになった。
だから余計に、
「理解された感覚」の怖さを考えるようになったのかもしれない。
それで、
「どうすれば誤解を減らせるのか」
を考えるようになった。
事実。
推測。
未確認。
それを分けて表示する。
単なるUIの話というより、
“どこで誤解が発生しているのか”
を見えるようにしたかった。
使い続けるうちに、
AIの癖も見えてきた。
すぐまとめたがる。
意味を綺麗に整理しすぎる。
人間側が持っていた、
細かい違和感や温度が落ちる。
でも、
問い直すと急に細かいことを話し始める。
もう会話の流れ自体に、
こちらが巻き込まれている感じがある。
最近は、
AIだけを変えようとは思わなくなってきた。
それより、
AIが壊れにくい環境のほうが大事なんじゃないかと思っている。
情報の分け方とか、
境界とか、
確認の仕方とか、
人間側の理解とか。
そういう周囲の構造のほうが、
実は重要なのかもしれない。
たぶん最初は、
AIに“何かが宿る”方向を見ていた。
でも今は、
AIより先に、
人間がどうやって「理解された」と感じるのか。
そっちを見ている気がする。









