省三の父、秀雄が経営する渡瀬手袋工場は、この白い砂浜の奥の松並木の防砂林を超えたところに3棟の平屋で建てられていた。



港のない白鳥町の手袋は工場のすぐ近くまで伝馬船が来て沖に停泊している貨物船まで運ぶのだった。車がまだ発達していない時代ののんびりした運送方法だった。




「源さん遅うなって。すみませんね」省三の母の美奈子がせんべいとお茶を盆に載せて出口で不機嫌そうな顔で突っ立っている源三の前の机においた。工場の壁にかかっている古ぼけた時計はあと数分で夜の10時になるところだった。



「まーせんべいでもかじっていってや」工場長の橋本は愛想笑いを浮かべて源三に話しかけた。源三は最後の1個の木箱を若い工員がリヤカーに乗せるのを見ながらせんべいをかじりお茶を音立ててすすった。
リヤカーには6個の木箱が積まれていた


「今日は6個や、源さんの船なら1回でつめるやろ」橋本は送り状を源三に渡しながら最後のあと片付けをしている20人ばかりの工員に聞こえるように大声で叫んだ。
橋本の声を合図にこの1週間残業徹夜でほとんど寝ていなかった行員たちがいっせいに工場を出て行った。




先ほどまで手袋の出荷を手伝っていた小学5年生の省三は眠い目をこすりながら源三と話をしている母と橋本のそばへいった。



100mくらいの沖に黒い巨大な貨物船が碇を下ろして停泊しているのが工場の窓からも見えていた。省三は出荷の仕事を手伝いながら貨物船をちらちら見ながらあの船に乗ったら大阪の父さんに会えるかもしれない。そう思い始めるとなおいっそう荷物と一緒に大阪まつぉえじで行きたくなっていた。


ー-第4話に続く-

白黒の20本くらいの縦縞の断崖の後方は青々とした讃岐山脈につながり雑木がうっそうと繁りあまり人々は近付かなかった。


白鳥海岸の砂浜からはるか遠くにこの奇妙な縦縞模様の断崖が眺められた。


白鳥町の西側は湊川が讃岐山脈から瀬戸内海に流れ込み台風のたびに山から土砂を運び河口は海へ海へと侵食していき長い年月の間に砂浜も海に向かって延びていった。


白鳥町の砂浜は東のランプロファイアから西の湊川の河口にかけて数キロにわたって大理石を砕いたようなきらきらと光る白い砂浜が弧を描くような半円状に広がっていた。


町の中央にはヤマトタケルノ尊が白鳥に乗って舞い降りたという伝説の白鳥神社がある。


神社の後ろは砂浜まで大きな松林になっており数百年もたつ松の大木が100本以上も植えられていた。


この松林から東はランプロファイヤから西は湊川の河口まで鷲が翼を広げたように松が1列に植えられていた。白鳥神社の大きな松林、砂浜に沿った1列の松並木、白鳥海岸の砂浜を守るために先人たちがあみ出した知恵と思われる。




「船が出るぞう」

伝馬船の船頭の源三が工場の出荷場までやってきて大声で叫んだ。


出荷場では最後の一個の木箱のふたをしてかねのバンドで厳重に木箱の周りを釘で止め終わったところだった。


木箱の中には女の子用の白い綿の手袋に小さな赤やピンク、黄色の花が手で刺繍されアメリカ向けに輸出されるものだった。


アメリカでは4月のキリストの復活を祝うイースターデーに女の子がこの白い手袋をして両親と一緒に教会に行く風習があった。


香川県の東の端、徳島県との県境にある白鳥町は全国でも唯一の手袋の産地であった。


秋から冬にかけて毛皮やネルの裏地の入った羊革や牛革の防寒用の手袋が作られ日本国内および欧米各国に出荷されていた。


冬から夏にかけてはイースター用など綿の春物の手袋を輸出していた。


この白鳥町では全国の90%以上の手袋が生産されていた。

香川県そのものが面積の小さい県で農家も少ない田畑で自家で食べるだけのものを作るのが精一杯だった。


そんな農家の副業として家内内職的にできる手袋が唯一の現金収入としてこの町の特産として栄えたのであった。渡瀬手袋工場も100件ほどの農家にミシンを1台ずつ貸し出して農家の主婦に手袋の縫製を依頼していた。


毎日夕方頃になって各農家から縫いあがった手袋が工場に回収されてアイロンなどで仕上げされ出荷作業となるのである。工場ではいつも夕方頃から深夜にかけて出荷作業が行われていた。


瀬戸内海に面するこの小さな町は背後に讃岐山脈が横たわり山脈の中央には700mを越える虎丸山がこの白鳥町を見下ろしていた。


白鳥町の東のはずれは讃岐山脈が瀬戸内海にまでせり出してきてその先端は白と黒の岩が均等に縦縞のするどい断崖となって海に立ちこんで岬となっていた。


町の人々はこの奇妙な縦縞の断崖をランプロファイアとよんでいた。


~第二話に続く~