昭和28年(1953年)省三11歳、小学5年の夏休みの思いで深い出来事だった。

この夢のような体験が家内内職型工業だった手袋をゴルフグローブや野球のバッテインググローブというスポーツ産業へと大きく転換していくのに省三がその先頭に立って活躍するとは省三自身まったく思っても見なかった。


「今日はついていたね。ちょうど巨人軍が来ていてよかった。今日は甲子園で阪神戦だ。阪神は長いロードに出ていて久しぶりのホームグラウンドだからこの3連戦は超満員みたいだよ。阪神パークの前が甲子園球場だから帰りでも球場へ行ってみようか」

「見られたらうれしいな。だけど入れるの?」

「たぶん無理だと思うけど阪神パークまで行くんだからダメモトで行くだけいってみょう」隼人は自信なさそうに省三に言った。

二人は急いで朝食を済ますと甲子園口の駅前から市電に乗って甲子園球場に向かった。


9時前だったが市電も相当混んでいた。市電の乗客も全員甲子園球場で降りた。

球場の切符売り場は長蛇の列だった。この年甲子園球場はまだナイター設備はなくデーゲームか薄暮ゲームだった。

「こりゃ野球は無理だ。1時のプレーボールなのにこの列だ」

隼人は省三の手を引いて球場の人の列を横目に見ながら阪神パークの入場口に向かった。夏休み最後の日曜日とあって阪神パークも大変な人だった。切符売り場の列に隼人と省三は並んだ。省三はあまりの人の多さに驚いた。遊びに行くのも結構辛抱の要るものだ。と人の列に並びながら感じていた。それでも20分くらいで入場できた。

メリーゴーランド、ジェットコースターどの乗り物も30分以上は並ばなければ乗れなかった。


「省ちゃん、今日は乗り物はあきらめよう。並ぶだけで日が暮れてしまうよ。動物園だけにしょう」

動物園の方が省三は好きだった。どの動物も目がかわいらしく目を見ているとなんとなく気持ちが安らぎ、優しい気持ちになるのだった。ぎすぎすした気持ちで乗り物待ちの人の列に並ぶより象やシマウマ、ゴリラのしぐさや目の表情が省三には楽しかった。

隼人も同じらしく一層優しいお兄ちゃんに見えた。

「省ちゃん。野球が終わったら電車も混むから早めに帰ろう」

時計を見ると3時だった。


ー第19話に続くー

隼人は小さな門を開け先に家の中に入っていった。省三は秀雄と手をつなで一緒に門の中に入っていった。


「お帰りなさい」キューピー人形のような丸い目をクリクリ回しながらおかっぱ頭の女の子が家の中から出てきた。

「キュウちゃんですか。省三です。よろしくお願いします」

小さいエプロンをつけたおかっぱ頭の女の子はキュウちゃんという呼び名がぴったりだった。

「省ちゃん、よく来たわね。疲れたでしょう。お風呂沸かしてありますからゆっくり入って一眠りしたほうがいいわ」

省三は湯船につかりながら明日、早朝に起きて巨人軍の選手たちを見られると思うとうれしくてわーい、わーいと一人で湯船の中ではしゃいでいた。


翌朝5時頃目覚めた。まだ薄暗らかったが公園に一人で行った。2,3人の若い選手がTシャツと短パン姿で公園の周りをランニングしていた。省三の知らない選手だった。

省三は公園の入り口付近のベンチに腰掛けてずっと彼らのトレー-ニングを見続けた。


30分くらいすると選手は急に増えて20人ほどになった。テレビでよく見る選手も混じっていた。ランニングするもの、ストレッチするもの、朝の涼しいうちにトレーニングをして汗を流していた。やがて隼人が色紙とサインペンを持って省三の座っているベンチの横に来て座った。何人かの人が色紙を持って省三たちの近くに集まって来た。

「このベンチに座っていると選手たちが横を通って帰っていくからそのときサインをもらえるよ」隼人は省三の耳元でささやいた。

「ほらあそこで柔軟体操をしているのが別所、バットで素振りしているのが川上、青田はあそこでランニングしている」隼人は指差しながら選手の名前を教えてくれた。

やがて選手たちが軽い練習を終わってぱらぱらと省三たちのいるベンチの近くを通って出口を出て行った。


「サインお願いします」

選手たちは省三の指し出す色紙に気持ちよくサインをしてくれた。十数名のサインをもらった。もちろん別所、川上、青田のサインはもらえた。隼人がサインをもらった色紙の裏に鉛筆で選手の名前を書いてくれた。

「みんな独特のサインをするからこうして裏に名前を書いておくと誰のサインかわかるだろ」隼人は省三にウィンクしながら笑顔で省三に言った。

省三はサインをもらう度に丁寧に頭を下げて「ありがとうござました」とお礼を言った。

四国へ帰ったらみんなに自慢できるぞと色紙を胸に抱えて夢を見ているような気持ちだった。

「隼人兄ちゃん、色紙持ってきてくれてどうもありがとう。僕の一生の宝物が出来ました。四国の友達はうらやましがるやろな」


第18話に続くー

「省ちゃん、おなかすいたやろ。さー食べよう」

隼人はテーブルからいろいろな料理を省三のお皿にとり分けてくれた。

「今日はいっぱい食べてゆっくり休んで明日は日曜日や。隼人に阪神パークにでも連れて行ってもろたらええ」今までいかつい顔で省三をにらみつけていた父しか知らなかったがは今日だけはまなざしも優しかった。


「阪神パークってなにがあるの」省三は鯉のから揚げを食べながら隼人に聞いた。

「メリーゴーランドやジェットコースターやいろんな乗り物がある。動物園もあって象やキリンやゴリラ、ライオン、虎、いろんな動物がおる。きっと省ちゃんが喜びそうなもんがいっぱいおるで」

「うわー、うれしいな。隼人兄ちゃんと一緒なら面白いやろうな」

省三はテーブルをくるくる増しながら中華料理をたらふく食べた。


甲子園口の駅から10分くらい歩いたところに父の家があった。

「この近くに巨人軍が遠征に来たときの定宿があるんや。今日は甲子園で巨人阪神の試合をしているから今夜は巨人軍の選手はこの宿に帰ってくるはずや」

兄の忠義、省三、弟の勇は熱狂的なが巨人ファンだった。


「ここがその旅館や」

その旅館は武庫川の堤防の下の小さな公園に面して建っていた。

「明日の朝早く起きてこの公園に来てみな、巨人軍の選手がいっぱい居てトレーニングしとるから」

「ほんと!僕 絶対早起きする」

省三はテレビでしか見られなかった巨人軍の選手をじかにみられるとあって胸がわくわくしていた。


父の家はその旅館から5、6軒先を左の曲がったところにあった。同じような門と庭、同じような2階建ての家が整然と並んで建っていた。どの家も小さな門がありよく手入れが行き届いた庭木が7,8本植えられ高級住宅街の雰囲気があった。


ー第17話に続くー