千本丸太町にある大極殿跡碑です。

 

 

平安宮大極殿は、平安宮朝堂院の一角にあった国家の正殿。

平安宮最大の建物で、即位の礼や朝賀など、国家の公式行事が行われました。

広大な平安宮の維持は困難となり、冷泉天皇の即位の礼が内裏紫宸殿で行われたのを皮切りに、次第に公的行事の場は天皇住まいである内裏に移ります。大極殿は貞観18年(876年)と天喜6年(1058年)に焼失。再建されるも、安貞3年(1177年)の焼失後は、朝堂院が荒廃していたこともあり再建されませんでした。

天皇が公式行事の際に着座する高御座は大極殿にありましたが、内裏紫宸殿に移されました。現在の高御座は京都御所紫宸殿にあります。東京遷都後も昭和天皇までの即位の礼は京都御所紫宸殿で行われました。平成、令和の即位の礼は東京で行われたため、高御座は東京まで運ばれました。

こちらの碑は、明治28年(1895年)、平安京遷都1100年を記念して建てられたもの。平安時代の延喜式をもとに、当時から場所が変わっていないとされる東寺を基準に大極殿の場所を推定したといいます。この年京都で行われた第四回内国勧業博覧会のパビリオンとして、かつて平安宮大極殿があった千本丸太町に再建計画がありましたが、現地にはすでに民家が建ち並んでいたため、鴨川東の岡崎に8分の5の大きさで再建。このとき再建された大極殿は、現在平安神宮外拝殿となっています。

昭和15年、碑の周囲に内野児童公園が開設。内野は地名で、平安宮大内裏廃止後、一帯が荒野となり内野と呼ばれていたことによります。内野には安土桃山時代、関白豊臣秀吉によって聚楽第が建造されましたが、8年で棄却されています。

平成6年、千本通の電話線施設工事による発掘調査で大極殿基壇の一部を発見。碑が建てられた明治時代当時は平安時代の尺や地磁気の変化が考慮されていなかったとされ、実際の大極殿は碑の東南にあって、碑が建つ場所は朝堂院を囲う廻廊上、昭慶門西に位置することが確定しました。平成8年、内野児童公園の発掘調査で緑釉瓦を発見。大極殿に葺かれていた瓦と推定されています。

 

 

大極殿があった千本通沿いにも碑があります。

 

 

 

大極殿跡碑;京都市上京区千本丸太町