九条にある教王護国寺(東寺)です。

 

 

東寺真言宗総本山。

延暦13年(794年)、平安京遷都後、平安京羅城門の左右に官寺として東寺と西寺が整備されます。9世紀末頃完成した東寺の伽藍は、南大門、中門、金堂、講堂、食堂が南から北へ一直線に並び、南東隅に五重塔を置きました。伽藍は何度も焼失再建を繰り返しているものの、創建当時と同じ場所にあります。

弘仁14年(823年)、嵯峨天皇によって東寺は空海に与えられます。西寺が平安時代中期に荒廃、鎌倉時代に廃絶したのに対して、東寺は真言宗根本道場として栄え、現代まで法灯を伝えました。天長4年(827年)、淳和天皇が病に倒れたのは、東寺造営のため稲荷山の木を切った祟りであるとして稲荷社(後の伏見稲荷大社)が神階を受けます。秦氏の氏寺であった伏見稲荷大社は朝廷に取り込まれ、東寺は伏見稲荷大社の神宮寺となりました。鎌倉時代頃から東寺は教王護国寺を称し現在の宗教法人名ともなっていますが、創建当時からの名である東寺も併用しています。

建武3年(1336年)、九州から攻め上った足利尊氏は東寺に本陣を置き、北朝・後光厳天皇から錦の御旗を受けます。永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が東寺に陣を置きます。貞享2年(1685年)、加賀藩5代藩主・前田綱紀が東寺の文書保管のため百個の桐箱を寄進(これで保管された文書が「東寺百合文書」)。慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いでは新政府軍の本営が東寺に置かれています。

平成6年(1994年)、「古都京都の文化遺産」としてユネスコの世界文化遺産に登録。平成26年(2014年)、東寺が所蔵してきた8~18世紀に及ぶ約千年間の古文書群である東寺百合文書がユネスコの世界記憶遺産に登録(東寺百合文書は戦後、京都府に所有が移り、現在は京都府立京都学・歴彩館所蔵)。

洛陽三十三所観音霊場23番札所。京都十三仏霊場2番札所。神仏霊場巡拝の道84番札所(京都4番)。

 

 

南大門。

東寺の正門。

慶長10年(1605年)、蓮華王院(三十三間堂)西門として建てられたもので、重要文化財。明治28年、こちらに移築されています。

 

 

金堂。

東寺の本堂。

慶長18年、完成。豊臣秀頼の寄進によるもので国宝。

東寺の本尊・薬師三尊像(重要文化財/安土桃山時代)が安置されています。

 

 

講堂。

延徳3年(1491年)の建造物で重要文化財。

大日如来坐像を中心とする五仏坐像(重要文化財)を中心とする立体曼荼羅に仏像が配置されます。


 

五重塔。

寛永21年(1644年)、江戸幕府3代将軍・徳川家光の寄進によるもので国宝。

慶応4年1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで新政府軍の本営が東寺に置かれた際には、西郷隆盛が五重塔の五層目まで登り、伏見の戦況をうかがったそうです。


 

不二桜。

 

 

東大門。

室町時代の建造物で、重要文化財。

別名、不開門。

建武3年、九州から攻め上った足利尊氏は、比叡山へ逃れた後醍醐天皇を攻めますが敗れ、東寺へ逃げ込んで東大門から入り門を閉めます。尊氏を追ってきた後醍醐天皇方の新田義貞・名和長年は尊氏に一騎討ちを求めて東大門の外で待ちますが、門が開くことはありませんでした。そのことからこの名があるそうです。


 

夜叉神堂。

向かって右側に雄夜叉神、左側に雌夜叉神、一対の夜叉神が祀られています。

当初は南大門に祀られていましたが、参拝する者が礼を尽くさないと祟ったので、中門に移されたといいます。現在は、講堂と食堂の間にあります。

 

 

小子坊。

建武3年、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏は都へ攻め上りますが、奥州から戻った北畠顕家軍に蹴散らされ、九州へ落ちます。再起を図った尊氏は再び上洛、東寺に陣を置きました。尊氏の上洛を聞いた後醍醐天皇は比叡山延暦寺へ逃れますが、後醍醐天皇に連行されるはずだった光厳上皇は体調が悪いとしてわざと遅れ、隙を見て東寺に陣を張る尊氏のところへ駆け込みます。尊氏はここで光厳上皇から御醍醐天皇追討令と錦の御旗を受け、勝利。小子坊は、このとき光厳上皇の御所とされた建物。

現在の建物は昭和9年の建造物。

 

 

 

教王護国寺(東寺);京都市南区九条町1