尾川永次のブログ -16ページ目

尾川永次のブログ

小説、ポエム、旅日記などなど徒然なるままに行きたいと思っています

                春の轍 ⑩の1

                        尾川泳児

 

「とりあえずこれを」
 謙三はカウンターにタオルを置き、女性の肩に羽織るように

ジャンバーを掛けた。

 

「少しでも拭いた方がいい。風邪引いちまいますからね」

 

 だが、女性はじっとしたまま拭く気配すら無い。

 謙三は構わずラーメンの準備をしながら彼女に話しかけた。

 

「私は鬼島謙三と言いましてね。さっきも言いましたが六十まで
 刑事でね。それで退職後は警備員をしていたんですが女房が

 突然屋台のラーメン屋をやりたいなんてぬかしやがって。

 で、ついには押し切られてしまいまして。商売なんて出来ないと

 抵抗はしたんですが、一生に一度のお願いなんて言われたら

 無下にもできなくて。ま、女房には苦労掛けっぱなしでしたから」

 

 喋り続ける謙三をよそに女性は漠然と屋台のカウンター辺りに
視線を向けている。

 

「おっと、いけね。カウンターを拭いてなかったな」

 

 そう言うと謙三は屋台の反対側に回り、カウンターを拭きながら、

 女性を観察した。
 聞いているのかどうかも分からない。呆然自失とはこの事を言う
 のだろう。このまま語りかけて良いのだろうか…。
 思案しているその時だった。

 

 女性の濡れた髪からぽとりと落ちた水滴が膝に乗せていた手の

甲で跳ねた。
 すると、その手をゆっくりと握り締めた。 

 

 その光景を見た謙三は僅かだが光明を見た気がした。外への

意識が働き出したのかもしれない…。

 

 謙三はカウンターを拭き終えると、少しでも拭いた方がいいと
タオルを女性の手に乗せ元の位置に戻った。

「ところでなんだ。貴方のお名前を伺っても構いませんかね?勿論
 無理にとはいいませんが」

 

 女性は十秒ほどしてから小さな声で答えた。

「田代…、田代夏子です…」

 

 女性の返事を聞いて謙三は胸を撫で下ろした。拒絶した先程とは
喋り方が全く違っていたのだ。

 

「田代なつこさんか。なつこのなつは春夏秋冬の夏ですか?」
「はい…」
「そうですか。女房の名前が春子なんですよ。本人曰く春になると
 なんだかうきうきするんだそうで。夏子さんはどうですか?」
「いえ、特には無いです」

 

 ここまで会話出来ればもう大丈夫だろう。
 謙三は安堵の笑みを浮かべ、沸騰した鍋に麺をぱらぱらと入れ
ながら尋ねた。
「スーツを着ているってことはОLさん?」

 

「はい」

「勤めて長いのかい?」

 

「いえ、昨年の四月からです」
「この四月で丸一年か。で、生まれはどこかな?」

 

「九州の熊本です」
「熊本かあ。一度行って見たいんだけど、なんせ仕事が忙しかった
 から新婚旅行にも行けなくてね。で、ご両親は健在ですか?」

 

「父は私が小さいときに事故で。その後は母が女手一つで育てて
 くれました」
「お母さんのお仕事は?」

 

「保険の外交をしてます」
「おっと、根掘り葉掘り聞いてしまいましてすみません。職業病です

 かね。ははは」

夏子は少し頭を振って小さく”いえ”と答えた。

 

「さてと出来ましたよ」

 

 謙三は夏子の前に出来たてのラーメンを置いた。冷え切った空気
の中をラーメンから湧き上がる湯気が揺らめきながら立ち昇って行
く。

 

「とりあえずこれ食べて冷えた躰を温める。後のことはそれから
 でってことで」
「…」
 夏子はじっとラーメンを見つめていた。

 

「ラーメンは嫌いかな?」
「いえ、そんなこと有りませんが…」
「遠慮せずに食べて下さい。亡くなった春子が丹精込めて作り上げ

 たラーメンを誰かに食べてもらいたくてね」

 

「え?」夏子が始めて顔を上げて謙三を見た。

 

「実は開店してまだ五日目なんですよ。夏子さんがお客様第一号。

 考えたら強引な客引きなんて元刑事にあるまじき行為か。警察

 には通報しないで下さいね。はははは」
 そう言って笑い出した謙三を見ていた夏子の表情が僅かに緩んだ。

 

「ほらほら。冷めない内に食べて食べて。勿論ご馳走です。遠慮
 無く…ん?御馳走したらお客さんじゃなくなっちまうかな。はは

 はは」

 謙三は再び笑い出した。

 

          春の轍 ⑨の3

                    尾川泳児

 

「とりあえずこれを」
 謙三は女性の肩にジャンバーを掛ける膝にタオルを乗せた。
「少しでも拭いた方がいい。風邪引いちまいますからね」

 

 だが女性はじっとしたまま拭く気配すら無い。

 

 謙三は構わずラーメンの準備をしながら彼女に話しかけた。
「私は鬼島謙三と言いましてね。さっきも言いましたが六十まで刑事

 でね。それで退職後は警備員をしていたんですが、女房が突然

 屋台のラーメン屋をやりたいなんてぬかしやがって。で、ついには

 押し切られてしまいまして。商売なんて出来ないと抵抗はしたん

 ですが、一生に一度のお願いなんて言われたら無下にもでき

 なくて。ま、女房には苦労掛けっぱなしでしたから」

 

 喋り続ける謙三をよそに女性は漠然と屋台のカウンター辺りに

視線を向けている。

 

「おっと、いけね。カウンターを拭いてなかったな」
 そう言うと謙三は屋台の反対側に回り、カウンターを拭きながら、
女性を観察した。
 

 聞いているのかどうかも分からない。呆然自失とはこの事を言うの

だろう。このまま語りかけて良いのだろうか・・・。

 

 思案しているその時だった。

 女性の濡れた髪から滴り落ちた水滴が膝に乗せていた手の甲で

跳ねた。
 すると、手の前に置いてあったタオルをゆっくりと握り締めた。

 

 その光景を見た謙三は僅かだが光明を見た気がした。外への
意識が働き出したのかもしれない…謙三は話題を変えた。

 

「ところでなんだ。貴方のお名前を伺っても構いませんかね?勿論

 無理にとはいいませんが」

 

 女性は十秒ほどしてから小さな声で答えた。
「田代…、田代夏子です…」

 

 女性の返事を聞いて謙三は胸を撫で下ろした。拒絶した先程とは
喋り方が全く違っていたのだ。

 

「田代なつこさんか。なつこのなつは春夏秋冬の夏ですか?」

 

「はい…」

 

「そうですか。女房の名前が春子なんですよ。本人曰く春になると
 何だかうきうきするんだそうで。夏子さんはどうですか?」

 

「いえ、特には無いです」

 

 ここまで会話出来ればもう大丈夫だろう。
 謙三は安堵の笑みを浮かべ、沸騰した鍋に麺をぱらぱらと入れ
ながら尋ねた。
「スーツを着ているってことはОLさん?」

 

「はい」

 

「勤めて長いのかい?」

 

「いえ、昨年の四月からです」

 

「この四月で丸一年か。で、生まれはどこかな?」

 

「九州の熊本です」

 

「熊本かあ。一度行って見たいんだけど、なんせ仕事が忙しかった
 から新婚旅行にも行けなくてね。で、ご両親は健在ですか?」

 

「父は私が小さいときに事故で。その後は母が女手一つで育てて
 くれました」
「お母さんのお仕事は?」

 

「保険の外交をしてます」

 

「おっと、根掘り葉掘り聞いてしまいましてすみません。職業病です

 かね。ははは」

 

 夏子は少し頭を振って、小さく”いえ”と答えた。

 

「さてと出来ましたよ」

 

 謙三は夏子の前に出来たてのラーメンを置いた。

 冷え切った空気の中をラーメンから湧き上がる湯気が揺らめき

ながら立ち昇って行く。

 

 

        春の轍  ⑨の2

                      尾川泳児

 

 謙三は急いで屋台に戻り、折りたたみ傘を持って来ると、その

女性に差し掛けた。
「こんな雨の中どうしたんですか?」

 

 返事は無く、肩まで伸びたストレートヘアーからぽとりぽとりと

滴が落ちて行く。

 

 年の頃なら二十四、五。紺系と思われるスーツからするとOLの

ようだ。多分、ここに来たのは服の濡れ具合からすると霧雨になって

からと思われるが、それでも三十分はここに居たはずだ。躰は冷え切っているだろう。

 

 謙三の問いかけに振り向くで無く、女性はうな垂れたまま暗い

地面を見続けている。

 

「とにかくこのままじゃ風邪引いてしまいますよ」
 すると再びの問いかけに俯いたまま、か細い声で答えた。

「…いいんです。放って置いて下さい」

 

 明らかに自暴自棄になっている人間の台詞だった。

 

「まあ確かに、貴方に干渉する権利は私にはありません。ですから

 放って置いてあげたいのは山々ですが、目の前でラーメン屋を

 営業している身としてはそうもいかないもので」

 

 女性はゆっくりと顔を上げ屋台へと視線を向けた。
「そうでしたか…。すみません」
 力無く会釈すると女性はゆっくりと立ち上がり公園に向かって歩き

だそうとした。
 だが、次の瞬間、謙三は女性の腕を掴んでいた。
 今、この女性(人)を一人にしてはいけない。とっさに出た行動

だった。

 

「傘は無いのですか?これ以上雨に濡れ続けたら風邪じゃ済まなく

 なりますよ」
「ですから放って置いて下さいと言っているじゃないですか!」
女性は幾分声を荒げた。

 

 だが、このまま行かせてしまったら最悪の事態も有り得る。
そう思えるほど女性の顔は憔悴しきっている様に見えたのだ。

 

 謙三は賭けに出た。

 

「実はね、こう見えても私は元刑事でね。傘も差さず冷たい雨に

 濡れた女性を放って置くなんて出来る訳が無い」

 

 刑事と言って引き止められなければ仕方が無い。
 勿論、逆効果も有るだろう。そうなったら直ぐにでも警察に連絡して

身柄を保護して貰うつもりでいた。

 

 だが元刑事と言う言葉が功を奏したのだろうか。女性は立ち去ろう

としていた歩みを止めた。
 謙三は彼女の精神状態を落ち着かせようと出来うる限り温和な

口調で語りかけた。

 

「ここに居る貴方に気付かなければ、それは仕方ないことでしょう

 けれど、私は雨でずぶ濡れになった貴方に気付いてしまった。

 迷惑かも知れませんが、もうその事実は変えようがない」

 

 謙三は握っていた力を弱めた。

 女性が冷静になった時、強く握った手に威圧感や恐怖を感じる

と別の反応を引き出してしまう恐れがあるからだ。

 

「ただ、今の私は一般人ですので貴方を拘束する権利はありま

 せんが、どうでしょう。ほんの少しでいいんです。遠回りをして

 みませんか?その後は貴方の自由です。私もそれ以上は何も

 言いません」

 

 すると、僅かだが解こうとしていた女性の手の力が完全に抜けた。

 どうやら一瞬でも立ち止まってくれるようだ。

 

「良かった。とにかく、ここじゃなんだから屋根の有る所に行きま

 しょう」

 

 謙三は彼女を屋台へと引っ張って行き椅子に座らせた。