春の轍 ⑨の2
尾川泳児
謙三は急いで屋台に戻り、折りたたみ傘を持って来ると、その
女性に差し掛けた。
「こんな雨の中どうしたんですか?」
返事は無く、肩まで伸びたストレートヘアーからぽとりぽとりと
滴が落ちて行く。
年の頃なら二十四、五。紺系と思われるスーツからするとOLの
ようだ。多分、ここに来たのは服の濡れ具合からすると霧雨になって
からと思われるが、それでも三十分はここに居たはずだ。躰は冷え切っているだろう。
謙三の問いかけに振り向くで無く、女性はうな垂れたまま暗い
地面を見続けている。
「とにかくこのままじゃ風邪引いてしまいますよ」
すると再びの問いかけに俯いたまま、か細い声で答えた。
「…いいんです。放って置いて下さい」
明らかに自暴自棄になっている人間の台詞だった。
「まあ確かに、貴方に干渉する権利は私にはありません。ですから
放って置いてあげたいのは山々ですが、目の前でラーメン屋を
営業している身としてはそうもいかないもので」
女性はゆっくりと顔を上げ屋台へと視線を向けた。
「そうでしたか…。すみません」
力無く会釈すると女性はゆっくりと立ち上がり公園に向かって歩き
だそうとした。
だが、次の瞬間、謙三は女性の腕を掴んでいた。
今、この女性(人)を一人にしてはいけない。とっさに出た行動
だった。
「傘は無いのですか?これ以上雨に濡れ続けたら風邪じゃ済まなく
なりますよ」
「ですから放って置いて下さいと言っているじゃないですか!」
女性は幾分声を荒げた。
だが、このまま行かせてしまったら最悪の事態も有り得る。
そう思えるほど女性の顔は憔悴しきっている様に見えたのだ。
謙三は賭けに出た。
「実はね、こう見えても私は元刑事でね。傘も差さず冷たい雨に
濡れた女性を放って置くなんて出来る訳が無い」
刑事と言って引き止められなければ仕方が無い。
勿論、逆効果も有るだろう。そうなったら直ぐにでも警察に連絡して
身柄を保護して貰うつもりでいた。
だが元刑事と言う言葉が功を奏したのだろうか。女性は立ち去ろう
としていた歩みを止めた。
謙三は彼女の精神状態を落ち着かせようと出来うる限り温和な
口調で語りかけた。
「ここに居る貴方に気付かなければ、それは仕方ないことでしょう
けれど、私は雨でずぶ濡れになった貴方に気付いてしまった。
迷惑かも知れませんが、もうその事実は変えようがない」
謙三は握っていた力を弱めた。
女性が冷静になった時、強く握った手に威圧感や恐怖を感じる
と別の反応を引き出してしまう恐れがあるからだ。
「ただ、今の私は一般人ですので貴方を拘束する権利はありま
せんが、どうでしょう。ほんの少しでいいんです。遠回りをして
みませんか?その後は貴方の自由です。私もそれ以上は何も
言いません」
すると、僅かだが解こうとしていた女性の手の力が完全に抜けた。
どうやら一瞬でも立ち止まってくれるようだ。
「良かった。とにかく、ここじゃなんだから屋根の有る所に行きま
しょう」
謙三は彼女を屋台へと引っ張って行き椅子に座らせた。