春の轍 ⑨の1
尾川永児
駅前に到着した謙三は準備を終え赤いのれんを屋台の庇に
掛けると、街灯に照らされた雨粒を見つめた。
「今日は冷えるな」
もしかすると、この冷たい雨が客を呼び寄せるかもしれない。
淡い期待を胸に電車の到着を待った。
だが冷たい雨も状況を変えることは無かった。
次々と改札口からはき出された人の波は、止め処なく流れ下る
河の様に住宅街へと紛れて行く。それはいつもと変わらぬ風景
だった。
唯一違うと言えば雨のせいで人の流れが駅前によどんだこと
位だろう。だがそれも傘を持った家族が迎えに来るまでの事。
一人また一人と駅前から去って行く背中を謙三は見送り続けた。
気が付けば開始から三時間半が過ぎていた。雨は霧雨になりは
したが相変わらず降り続いている。
謙三は屋台の屋根から落ちる雨粒を見つめ弱気になって
いた。
(ここでいくらやっても客は来ないのかもしれないな…)
だが直ぐに頭を振った。
(いけね、いけね。五日で弱音吐いてたら春子に怒られちまう)
気が付いたら身じろぎもせず客を待ち続けた躰は冷えきって
いた。
謙三は躰をこすりながら立ち上がると屋台の反対側に回り、
吹き込んだ雨粒に濡れた椅子を雑巾で拭き始めた。
そして三つ目の椅子を拭き終わった時だった。
何気に向けた視線の先。公園の入り口に置いてあるベンチに
黒い人らしき影を見つけた。
(ん?まさか雨の中こんな時間に…)
距離にしたら十数メートル程だろうか。入り口に設けられた
コンクリートの柱が視界の妨げになっている上に、手前にある
自動販売機の灯りで奥にあるベンチの辺りは暗くてはっきり
見えない。
眼を凝らし謙三はゆっくりとその黒い影に近寄ると…
そのまさかだった。
傘も差さず、濡れたまま座っている女性がそこに居た。