春の轍 ⑧の2
尾川永児
ぼろ雑巾の様な空から零れ落ちて来た雨粒が屋台を引く謙三の
ジャンバーを濡らし始めた。
天気予報では降り始めは日没後。どしゃぶりにはならないが
深夜まで降り続くと言っていたが、どうやら外れたようだ。
(早く駅を通過しないとな)
うらめしげに見上げていた視線を道路に戻し謙三はいつになく
先を急いだ。
だが雨は無情にも吉祥寺駅の辺りで本降りとなり、駅前の
さほど広くは無い歩道は色取りどりの傘の花で埋め尽くされた。
急いだ理由はこれだった。
歩道が傘で一杯になれば屋台の通行が困難になる。ましてや
最近の風潮だ。スマホ片手に前など見てはいない。訝しげな顔を
されるのは構わないが屋台にぶつかって怪我でもされたらこちらが
悪いとなる。軽車両で歩道を通行しているのはこちらなのだ。
(仕方ないか…)
謙三は車が途切れた一瞬を見計らい屋台を車道へと進めた。
夜の帳がせまる駅前通り。渋滞はピークであり、引っ切り無しの
路線バスに路肩駐車の車が屋台の行く手を阻んだ。
容赦なく鳴らされるクラクションに濡れた頭を幾度と無く下げ
必死に屋台を引いた。
十五分後、ようやく住宅街が続く裏道へ入った処で屋台を止めた。
「ふー」
少し荒い息を吐きながらタオルで雨を拭い雨合羽を着込んだ。
雨粒が合羽に当たる音で普段なら聞こえるはずの車の音が
かき消されている。
(あと少しだ)
謙三は自分に言い聞かせると雨に濡れて冷たくなった引き棒を
掴み、前傾姿勢で足を踏ん張った。
降りしきる雨の中、屋台は井の頭公園を目指しゆっくりと動き
出した。