春の轍 ⑨の3
尾川泳児
「とりあえずこれを」
謙三は女性の肩にジャンバーを掛ける膝にタオルを乗せた。
「少しでも拭いた方がいい。風邪引いちまいますからね」
だが女性はじっとしたまま拭く気配すら無い。
謙三は構わずラーメンの準備をしながら彼女に話しかけた。
「私は鬼島謙三と言いましてね。さっきも言いましたが六十まで刑事
でね。それで退職後は警備員をしていたんですが、女房が突然
屋台のラーメン屋をやりたいなんてぬかしやがって。で、ついには
押し切られてしまいまして。商売なんて出来ないと抵抗はしたん
ですが、一生に一度のお願いなんて言われたら無下にもでき
なくて。ま、女房には苦労掛けっぱなしでしたから」
喋り続ける謙三をよそに女性は漠然と屋台のカウンター辺りに
視線を向けている。
「おっと、いけね。カウンターを拭いてなかったな」
そう言うと謙三は屋台の反対側に回り、カウンターを拭きながら、
女性を観察した。
聞いているのかどうかも分からない。呆然自失とはこの事を言うの
だろう。このまま語りかけて良いのだろうか・・・。
思案しているその時だった。
女性の濡れた髪から滴り落ちた水滴が膝に乗せていた手の甲で
跳ねた。
すると、手の前に置いてあったタオルをゆっくりと握り締めた。
その光景を見た謙三は僅かだが光明を見た気がした。外への
意識が働き出したのかもしれない…謙三は話題を変えた。
「ところでなんだ。貴方のお名前を伺っても構いませんかね?勿論
無理にとはいいませんが」
女性は十秒ほどしてから小さな声で答えた。
「田代…、田代夏子です…」
女性の返事を聞いて謙三は胸を撫で下ろした。拒絶した先程とは
喋り方が全く違っていたのだ。
「田代なつこさんか。なつこのなつは春夏秋冬の夏ですか?」
「はい…」
「そうですか。女房の名前が春子なんですよ。本人曰く春になると
何だかうきうきするんだそうで。夏子さんはどうですか?」
「いえ、特には無いです」
ここまで会話出来ればもう大丈夫だろう。
謙三は安堵の笑みを浮かべ、沸騰した鍋に麺をぱらぱらと入れ
ながら尋ねた。
「スーツを着ているってことはОLさん?」
「はい」
「勤めて長いのかい?」
「いえ、昨年の四月からです」
「この四月で丸一年か。で、生まれはどこかな?」
「九州の熊本です」
「熊本かあ。一度行って見たいんだけど、なんせ仕事が忙しかった
から新婚旅行にも行けなくてね。で、ご両親は健在ですか?」
「父は私が小さいときに事故で。その後は母が女手一つで育てて
くれました」
「お母さんのお仕事は?」
「保険の外交をしてます」
「おっと、根掘り葉掘り聞いてしまいましてすみません。職業病です
かね。ははは」
夏子は少し頭を振って、小さく”いえ”と答えた。
「さてと出来ましたよ」
謙三は夏子の前に出来たてのラーメンを置いた。
冷え切った空気の中をラーメンから湧き上がる湯気が揺らめき
ながら立ち昇って行く。