春の轍 ⑩の1 | 尾川永次のブログ

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                春の轍 ⑩の1

                        尾川泳児

 

「とりあえずこれを」
 謙三はカウンターにタオルを置き、女性の肩に羽織るように

ジャンバーを掛けた。

 

「少しでも拭いた方がいい。風邪引いちまいますからね」

 

 だが、女性はじっとしたまま拭く気配すら無い。

 謙三は構わずラーメンの準備をしながら彼女に話しかけた。

 

「私は鬼島謙三と言いましてね。さっきも言いましたが六十まで
 刑事でね。それで退職後は警備員をしていたんですが女房が

 突然屋台のラーメン屋をやりたいなんてぬかしやがって。

 で、ついには押し切られてしまいまして。商売なんて出来ないと

 抵抗はしたんですが、一生に一度のお願いなんて言われたら

 無下にもできなくて。ま、女房には苦労掛けっぱなしでしたから」

 

 喋り続ける謙三をよそに女性は漠然と屋台のカウンター辺りに
視線を向けている。

 

「おっと、いけね。カウンターを拭いてなかったな」

 

 そう言うと謙三は屋台の反対側に回り、カウンターを拭きながら、

 女性を観察した。
 聞いているのかどうかも分からない。呆然自失とはこの事を言う
 のだろう。このまま語りかけて良いのだろうか…。
 思案しているその時だった。

 

 女性の濡れた髪からぽとりと落ちた水滴が膝に乗せていた手の

甲で跳ねた。
 すると、その手をゆっくりと握り締めた。 

 

 その光景を見た謙三は僅かだが光明を見た気がした。外への

意識が働き出したのかもしれない…。

 

 謙三はカウンターを拭き終えると、少しでも拭いた方がいいと
タオルを女性の手に乗せ元の位置に戻った。

「ところでなんだ。貴方のお名前を伺っても構いませんかね?勿論
 無理にとはいいませんが」

 

 女性は十秒ほどしてから小さな声で答えた。

「田代…、田代夏子です…」

 

 女性の返事を聞いて謙三は胸を撫で下ろした。拒絶した先程とは
喋り方が全く違っていたのだ。

 

「田代なつこさんか。なつこのなつは春夏秋冬の夏ですか?」
「はい…」
「そうですか。女房の名前が春子なんですよ。本人曰く春になると
 なんだかうきうきするんだそうで。夏子さんはどうですか?」
「いえ、特には無いです」

 

 ここまで会話出来ればもう大丈夫だろう。
 謙三は安堵の笑みを浮かべ、沸騰した鍋に麺をぱらぱらと入れ
ながら尋ねた。
「スーツを着ているってことはОLさん?」

 

「はい」

「勤めて長いのかい?」

 

「いえ、昨年の四月からです」
「この四月で丸一年か。で、生まれはどこかな?」

 

「九州の熊本です」
「熊本かあ。一度行って見たいんだけど、なんせ仕事が忙しかった
 から新婚旅行にも行けなくてね。で、ご両親は健在ですか?」

 

「父は私が小さいときに事故で。その後は母が女手一つで育てて
 くれました」
「お母さんのお仕事は?」

 

「保険の外交をしてます」
「おっと、根掘り葉掘り聞いてしまいましてすみません。職業病です

 かね。ははは」

夏子は少し頭を振って小さく”いえ”と答えた。

 

「さてと出来ましたよ」

 

 謙三は夏子の前に出来たてのラーメンを置いた。冷え切った空気
の中をラーメンから湧き上がる湯気が揺らめきながら立ち昇って行
く。

 

「とりあえずこれ食べて冷えた躰を温める。後のことはそれから
 でってことで」
「…」
 夏子はじっとラーメンを見つめていた。

 

「ラーメンは嫌いかな?」
「いえ、そんなこと有りませんが…」
「遠慮せずに食べて下さい。亡くなった春子が丹精込めて作り上げ

 たラーメンを誰かに食べてもらいたくてね」

 

「え?」夏子が始めて顔を上げて謙三を見た。

 

「実は開店してまだ五日目なんですよ。夏子さんがお客様第一号。

 考えたら強引な客引きなんて元刑事にあるまじき行為か。警察

 には通報しないで下さいね。はははは」
 そう言って笑い出した謙三を見ていた夏子の表情が僅かに緩んだ。

 

「ほらほら。冷めない内に食べて食べて。勿論ご馳走です。遠慮
 無く…ん?御馳走したらお客さんじゃなくなっちまうかな。はは

 はは」

 謙三は再び笑い出した。