春の轍 ⑩の2 | 尾川永次のブログ

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          春の轍 ⑩の2

                         尾川泳児

 

 夏子はそんな謙三に口元を緩めるとゆっくりラーメンに眼を戻した。
 食欲は無いが冷えきっている躰が温かいスープを欲している。

それだけは自分でも分かっていた。

 

 夏子は冷えた手を丼鉢へと伸ばした。
(暖かい…)
 寒さで痺れていた指先の感覚が戻って行く。

 すると、それまで分からなかったラーメンの香りが鼻腔に広がった。  (いい匂い…)

 香りに誘われるまま、左手で蓮華を掴むと琥珀色のスープをそっと
口に運んだ。

 

(えっ!? ) 夏子は驚きの表情を見せた。

 この口一杯に広がる味を何と表現したらいいのだろう。

 

 以前会社の上司に連れられて食べた屋台のラーメンの味とは

まるで違っていたからだった。

 

 直ぐに箸を持つと絡んだスープと共に麺をすすった。鳥と鰹節が
ベースだろうか。円やかに出汁が効いた優しいスープと絶妙の

バランスで麺がのどを通り過ぎて行く。

 

(何て、何てふくよかで優しい味なの…)

 

 躰も心も真綿で包まれる様に癒されて行くのが分かる。
 信じられなかった。屋台のラーメンでこんな気持になるなんて…。
目頭が熱くなった瞬間、目の前が揺らいだ。

 

(やだ、どうしよう…止められない)
 夏子の眼から大粒の涙が溢れ頬を伝って落ちた。

 

 それを見た謙三が慌てて訊いた。
「ど、どうしたんだい?何か余計なことまで聞いちまったかい?」

 

「ううん。違うんです。ラーメンが美味しくて、優しくて、暖かくて。かって  に涙が溢れて来ちゃって…」

 

「それならいいんだけど。始めての客商売だろ。どう接していいか分
 からなくてね」謙三は胸を撫で下ろした。

 

 夏子ははにかんだ笑顔で頭を横に振った。
「このラーメンほんとに美味しいんです。そう思ったらなんだか分から

 ないけど泣けてきちゃって」

 

「冷えてる躰に温かいラーメンだから美味しく感じたんじゃないかな。

 でも、そんな風に言ってくれて春子も本当に喜んでるよ」

 

 謙三は涙も拭かず美味しそうに食べる夏子を笑顔で見つめながら

心の中で春子に語りかけていた。
(春子、聞いたか。今の言葉。お前と俺の夢が一つ叶ったよ。今日は

 帰ったら祝杯だな)

 

 やがて夏子はスープを飲み干すと涙の痕と口元をハンカチで拭った。
「ふー、ご馳走様でした。美味しかったー」
 その顔には本心からの笑顔が戻っていた。

 

「おそまつ様でした。もう大丈夫そうだね」
 夏子はにかみながら頷くと謙三に尋ねた。
「あの…。一つ聞いていいですか?」
「何ですかい?」

 

「さっき奥さんが亡くなられたとおっしゃってましたが、どうしてラー

 メン屋さんをやろうと思ったんですか?ご主人はあまり乗る気では
 無かったみたいですが」

 

「そうですね。確かに春子が逝っちまった時は止めようと思ってまし

 たよ。一人で出来るとは思えなかったしね」
「でも始めた」

 

「実は商売の開始予定は二年前でしてね。屋台が届いたら始める

 予定だったんですよ。ただ残念な事に屋台を作ってくれてた会社が

 完成直前の台風被害で工場が屋台もろとも損壊してしまいまして

 ね。一年延びてしまったんですよ。春子は大変残念がってました。

 そんな時、春子の体調に異変が起きましてね」
「ご病気だったのですか?」
「末期癌でした」
「そうだったんですか」

 

「情けない話。ちっとも気付いてやれませんでね。医者には早ければ
 二年、長くても五年とか言われてたそうですが早ければになって

 しまいました」
「御辛かったでしょうね」
「まあ、春子が先立つなど考えもしなかったですからね」
「でもすごいですよ。諦めずに奥さんの、春子さんの意思を継いで
 ラーメン屋さんやってるんですから」

 

「そんな出来た話じゃないんですよ。本当は辞めようと思ってたん
 ですが、色々ありましてね」
 謙三はおでこから頭にかけて右手で軽く撫でると、その時の事を
語り始めた。

 

 春子が検査している間、医者に指示された身の回りの物を取りに
病室を出た所で娘の葵と鉢合わせした。

 

「お父さん。お母さんが病気だってこと何で教えてくれなかったの!」
 病棟の静かな廊下に悲しみと怒りに満ちた葵の声が響いた。
「すまん、父さんも知らなかったんだ」謙三は葵から眼をそらし

俯いた。
「ずっと一緒にいて気付かないなんて。いっつもそう!仕事仕事で
家の事は全部お母さんに任せっきりで…」

 

 謙三は俯いたまま葵の横を通り過ぎながら言った。
「母さんの身の回りの物を取りに帰らないと…」
 そんな謙三の背中に葵が畳み掛けた。
「お父さんは自分の事しか考えてないのよ。お母さんの事、女中

 ぐらいにしか思ってないんでしょ。だからお母さんが病気になって

 も気付きもしないのよ!」

 

 その声に謙三は立ち止まった。

 

 葵の言う通りだ。俺は春子に何をして上げたのだろう。病気一つ
しなかった春子に甘えて気遣い一つしてこなかった。

 

 歩き出した謙三はエレベーターの前で立ち止まると、力無く

ボタンを押した。