春の轍 ⑩の3 | 尾川永次のブログ

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            春の轍 ⑩の3

                       尾川泳児

 

 身の周りの物を持って謙三が部屋に入ると春子は躰を起こし

窓の外を観ていた。

 

「春子…」
「あなた。ご苦労様。着替え取りに行ってくれてたのね」
「起きてて大丈夫なのか?」
「もう大丈夫よ」
「葵はもう帰ったのか?」
「ええ、幼稚園に健太郎を迎えに行くからって」
「そうか。これは何処に置いたらいいんだ?」謙三は持ってきた

荷物を掲げた。

 

「着替えとタオルは壁の棚に。洗面道具はワゴンに置いて」
「分かった」
 馴れない手つきで着替えやらタオルを棚に仕舞っている謙三に春子が言った。

 

「あなた、ちょっと座って」
「なんだい、改まって」

 

 仕舞い終えた謙三はベッドの横に置いてあった丸椅子に座った。

 

 こんな近くで春子と向き合うのはいつ以来だろう。

笑顔を湛えてはいるが、春子の顔はやつれた様に見えた。

 

「屋台のことなんだけど」
「今はそんなこといいから治療に専念しないと」
「今だから言っておかないとね」
「お前が治るまでにラーメン作る練習しておくからな」

 

 春子の言うことは想像出来たが、聞きたくは無かった。せめて1日

でもいい。二人で屋台を引いて商売に立たせてやりたい。春子の

夢を叶えてやりたい。ほんのちょっとの希望でも持ってもらいたい。

だが、本人が一番分かっているのだ。

 

「ううん。私は十分満足よ。ほんと、嬉しかった。あなたが屋台を

 やってくれるって言ってくれたから」
「何言ってんだ。屋台が届いたら直ぐにでも始めるんだぞ。お前が

 苦労して作ったラーメンじゃないか。医者も頑張ってくれてるんだ、

 お前も頑張らないと」
「そうね。私も頑張らなくちゃね」

 

 望みの無い励まししか出来ない自分が情けなかった。

 

「そうだ、アイス食べるか?お前が大好きな抹茶入りのやつ。食べる

 なら買って来るぞ」
「うん、食べたいな」
「じゃ、行ってくるよ」
 立ち上がった謙三に春子が声を掛けた。

 

「あなた…」

「ん?」

 

 春子は眼を閉じ唇をすぼめると恥ずかしそうに謙三に向けて軽く

つきだした。

 

 一瞬の躊躇の後、謙三は春子に口付けをすると中腰で抱きしめ
 春子はもたれかかる様に身を委ねると耳元でささやいた。

 

「愛してるわ」
「俺もだよ」
「貴方に逢えて幸せだったわ」
「分かってる」

 

 謙三は若かった頃の様に強く抱きしめた。
 何もして上げられない辛さを抱きしめる手に込めた。

 春子の眼から涙が溢れ謙三の肩に零れ落ちた。

 

 二ヵ月後。春子は静かに息を引き取った。

 

 
 この手の事は苦手だろうからと、葬式の一切合財は娘夫婦が取り

仕切ってくれた。私は参列者にただただ頭をさげ、感謝の言葉を述

べた…と思う。

 

 殆ど覚えていないのだ。

 

 気が付いたら納骨を終え、娘夫婦と孫が迎えに来たタクシーで

我が家を後にしていた。

 

 謙三はリビングの年季の入った長いすに倒れる様に腰掛けた。

そして台所に眼を移した。

 

 そこに居るはずの春子はもういない。

 

 これから先、俺はどうなるのだろう。

 

 部屋一杯の静寂に心が押し潰されそうな気がした。