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尾川永次のブログ

小説、ポエム、旅日記などなど徒然なるままに行きたいと思っています

           春の轍 ⑪の1

                     尾川泳児

 

 四十九日は何とか済ませたが、それからの二週間、謙三は

産業用ロボットの様に毎日を過ごした。

 

 何も考えず朝を向かえ。食事をして、新聞を読み、何も考えずに

眠る。
 別のことをすれば春子を思い出して切なさに打ちひしがれるのが

分かっているからだ。

 

 あの日もそんな一日を過ごすはずだった。
 インタホンが鳴るまでは…。

 

 お届け物ですと言われ玄関に出ると運送業者の男が二人立って

いた。

 

「お届け物は何処に置いたらいいでしょうか?」
「何処に?」
「ええ。屋台なんですが置けそうなのはお車の横ぐらいですかね?」

 

 忘れていた…。もう使わないから持って帰れとも言えない。

 どうしていいのか思案している間に運送業者は車の横に置くと、さっさと引き上げてしまった。

 

 真新しい屋台が来客用の駐車スペースに鎮座した。
 しばらくは呆然と見ていた謙三だったが、ため息を一つ吐くと家に戻った。

 

 もう屋台は必要ない。処分するにしても市から配布されている

粗大ゴミの分別表に屋台など有る訳が無い。それに新品だ。

欲しいと言う人がいるかもしれない。
だとしても支払いが済んでいなければそれも出来ない。屋台に関

しては春子が全てやっていたので自分は何も分からないのだ。

 

 とにかく領収書を探すことにした。連絡先も書いてあるだろう。
 だが、リビングやキッチンの引き出しや書類入れなど、片っ端から

捜したが見つからなかった。

 

(後はあそこしかないか…)

 

 謙三は葵の部屋だった六畳の和室の前に立った。

 葵が結婚して出て行った後はアイロンを掛けたり裁縫したりと

春子の仕事部屋になっていた。

 

 出来れば今は入りたく無い。襖を開けても春子は居ないのだ。
 だが入るしかない。謙三にも分かっていた。

 

 ゆっくりと襖を開けると主を失った部屋から零れ出した冷気が

足の間をすり抜けた。

 

 何日ぶりだろう。

 洋服箪笥と三面鏡が何事も無かったかの様に置かれている。
 そして部屋の隅には春子が使っていた文机があり、薄っすらと

誇りを浮かべていた。

 

 謙三は文机の前にしゃがみこんだ。 
 開ければ更なる辛い思いをするのが分かっている。

 

 口元を引き結ぶとゆっくりと引き出しを開けた。

 

 案の定、机の中には春子が居た…。

 

 色褪せた家計簿にスーパーの領収書。クリップに輪ゴムの束。

 短くなった鉛筆に小指の先程の薄汚れた消しゴム。
 そして家族写真の春子は葵を抱いて笑っている。

 

 その瞬間、思い出が走馬灯様にあふれ出し恐れていた悲しみが

謙三の胸を刺した。
 もうこれ以上の愁傷に耐えられそうも無い。謙三は急いで机の

中を漁った。

 

 すると、その中に一冊の大学ノートが混ざっていた。

 さほど黄ばんではいない表紙には三年前の日付が記されていた。

 

(三年前…)

 

 思い当たる事が一つある。
 春子が屋台をやろうと言い出した時期であり自分の病気に気付いた時期だ。

 

 謙三は表紙をめくった。

 

《あなた、ごめんなさい。私、癌になっちゃった。》

 

 書き出しの言葉で読むのを辞めようかとも思ったが、避けても

何も変わらないし、いつまでもこんな生活を続けることも出来ない。

 

 謙三は覚悟を決め読み始めた。

 

 最初の数ページは病気の事が書いてあったが、それが終わると

自分に語った以上の、春子の思いがそこに綴られていた。
 

            春の轍 ⑩の3

                       尾川泳児

 

 身の周りの物を持って謙三が部屋に入ると春子は躰を起こし

窓の外を観ていた。

 

「春子…」
「あなた。ご苦労様。着替え取りに行ってくれてたのね」
「起きてて大丈夫なのか?」
「もう大丈夫よ」
「葵はもう帰ったのか?」
「ええ、幼稚園に健太郎を迎えに行くからって」
「そうか。これは何処に置いたらいいんだ?」謙三は持ってきた

荷物を掲げた。

 

「着替えとタオルは壁の棚に。洗面道具はワゴンに置いて」
「分かった」
 馴れない手つきで着替えやらタオルを棚に仕舞っている謙三に春子が言った。

 

「あなた、ちょっと座って」
「なんだい、改まって」

 

 仕舞い終えた謙三はベッドの横に置いてあった丸椅子に座った。

 

 こんな近くで春子と向き合うのはいつ以来だろう。

笑顔を湛えてはいるが、春子の顔はやつれた様に見えた。

 

「屋台のことなんだけど」
「今はそんなこといいから治療に専念しないと」
「今だから言っておかないとね」
「お前が治るまでにラーメン作る練習しておくからな」

 

 春子の言うことは想像出来たが、聞きたくは無かった。せめて1日

でもいい。二人で屋台を引いて商売に立たせてやりたい。春子の

夢を叶えてやりたい。ほんのちょっとの希望でも持ってもらいたい。

だが、本人が一番分かっているのだ。

 

「ううん。私は十分満足よ。ほんと、嬉しかった。あなたが屋台を

 やってくれるって言ってくれたから」
「何言ってんだ。屋台が届いたら直ぐにでも始めるんだぞ。お前が

 苦労して作ったラーメンじゃないか。医者も頑張ってくれてるんだ、

 お前も頑張らないと」
「そうね。私も頑張らなくちゃね」

 

 望みの無い励まししか出来ない自分が情けなかった。

 

「そうだ、アイス食べるか?お前が大好きな抹茶入りのやつ。食べる

 なら買って来るぞ」
「うん、食べたいな」
「じゃ、行ってくるよ」
 立ち上がった謙三に春子が声を掛けた。

 

「あなた…」

「ん?」

 

 春子は眼を閉じ唇をすぼめると恥ずかしそうに謙三に向けて軽く

つきだした。

 

 一瞬の躊躇の後、謙三は春子に口付けをすると中腰で抱きしめ
 春子はもたれかかる様に身を委ねると耳元でささやいた。

 

「愛してるわ」
「俺もだよ」
「貴方に逢えて幸せだったわ」
「分かってる」

 

 謙三は若かった頃の様に強く抱きしめた。
 何もして上げられない辛さを抱きしめる手に込めた。

 春子の眼から涙が溢れ謙三の肩に零れ落ちた。

 

 二ヵ月後。春子は静かに息を引き取った。

 

 
 この手の事は苦手だろうからと、葬式の一切合財は娘夫婦が取り

仕切ってくれた。私は参列者にただただ頭をさげ、感謝の言葉を述

べた…と思う。

 

 殆ど覚えていないのだ。

 

 気が付いたら納骨を終え、娘夫婦と孫が迎えに来たタクシーで

我が家を後にしていた。

 

 謙三はリビングの年季の入った長いすに倒れる様に腰掛けた。

そして台所に眼を移した。

 

 そこに居るはずの春子はもういない。

 

 これから先、俺はどうなるのだろう。

 

 部屋一杯の静寂に心が押し潰されそうな気がした。

 

          春の轍 ⑩の2

                         尾川泳児

 

 夏子はそんな謙三に口元を緩めるとゆっくりラーメンに眼を戻した。
 食欲は無いが冷えきっている躰が温かいスープを欲している。

それだけは自分でも分かっていた。

 

 夏子は冷えた手を丼鉢へと伸ばした。
(暖かい…)
 寒さで痺れていた指先の感覚が戻って行く。

 すると、それまで分からなかったラーメンの香りが鼻腔に広がった。  (いい匂い…)

 香りに誘われるまま、左手で蓮華を掴むと琥珀色のスープをそっと
口に運んだ。

 

(えっ!? ) 夏子は驚きの表情を見せた。

 この口一杯に広がる味を何と表現したらいいのだろう。

 

 以前会社の上司に連れられて食べた屋台のラーメンの味とは

まるで違っていたからだった。

 

 直ぐに箸を持つと絡んだスープと共に麺をすすった。鳥と鰹節が
ベースだろうか。円やかに出汁が効いた優しいスープと絶妙の

バランスで麺がのどを通り過ぎて行く。

 

(何て、何てふくよかで優しい味なの…)

 

 躰も心も真綿で包まれる様に癒されて行くのが分かる。
 信じられなかった。屋台のラーメンでこんな気持になるなんて…。
目頭が熱くなった瞬間、目の前が揺らいだ。

 

(やだ、どうしよう…止められない)
 夏子の眼から大粒の涙が溢れ頬を伝って落ちた。

 

 それを見た謙三が慌てて訊いた。
「ど、どうしたんだい?何か余計なことまで聞いちまったかい?」

 

「ううん。違うんです。ラーメンが美味しくて、優しくて、暖かくて。かって  に涙が溢れて来ちゃって…」

 

「それならいいんだけど。始めての客商売だろ。どう接していいか分
 からなくてね」謙三は胸を撫で下ろした。

 

 夏子ははにかんだ笑顔で頭を横に振った。
「このラーメンほんとに美味しいんです。そう思ったらなんだか分から

 ないけど泣けてきちゃって」

 

「冷えてる躰に温かいラーメンだから美味しく感じたんじゃないかな。

 でも、そんな風に言ってくれて春子も本当に喜んでるよ」

 

 謙三は涙も拭かず美味しそうに食べる夏子を笑顔で見つめながら

心の中で春子に語りかけていた。
(春子、聞いたか。今の言葉。お前と俺の夢が一つ叶ったよ。今日は

 帰ったら祝杯だな)

 

 やがて夏子はスープを飲み干すと涙の痕と口元をハンカチで拭った。
「ふー、ご馳走様でした。美味しかったー」
 その顔には本心からの笑顔が戻っていた。

 

「おそまつ様でした。もう大丈夫そうだね」
 夏子はにかみながら頷くと謙三に尋ねた。
「あの…。一つ聞いていいですか?」
「何ですかい?」

 

「さっき奥さんが亡くなられたとおっしゃってましたが、どうしてラー

 メン屋さんをやろうと思ったんですか?ご主人はあまり乗る気では
 無かったみたいですが」

 

「そうですね。確かに春子が逝っちまった時は止めようと思ってまし

 たよ。一人で出来るとは思えなかったしね」
「でも始めた」

 

「実は商売の開始予定は二年前でしてね。屋台が届いたら始める

 予定だったんですよ。ただ残念な事に屋台を作ってくれてた会社が

 完成直前の台風被害で工場が屋台もろとも損壊してしまいまして

 ね。一年延びてしまったんですよ。春子は大変残念がってました。

 そんな時、春子の体調に異変が起きましてね」
「ご病気だったのですか?」
「末期癌でした」
「そうだったんですか」

 

「情けない話。ちっとも気付いてやれませんでね。医者には早ければ
 二年、長くても五年とか言われてたそうですが早ければになって

 しまいました」
「御辛かったでしょうね」
「まあ、春子が先立つなど考えもしなかったですからね」
「でもすごいですよ。諦めずに奥さんの、春子さんの意思を継いで
 ラーメン屋さんやってるんですから」

 

「そんな出来た話じゃないんですよ。本当は辞めようと思ってたん
 ですが、色々ありましてね」
 謙三はおでこから頭にかけて右手で軽く撫でると、その時の事を
語り始めた。

 

 春子が検査している間、医者に指示された身の回りの物を取りに
病室を出た所で娘の葵と鉢合わせした。

 

「お父さん。お母さんが病気だってこと何で教えてくれなかったの!」
 病棟の静かな廊下に悲しみと怒りに満ちた葵の声が響いた。
「すまん、父さんも知らなかったんだ」謙三は葵から眼をそらし

俯いた。
「ずっと一緒にいて気付かないなんて。いっつもそう!仕事仕事で
家の事は全部お母さんに任せっきりで…」

 

 謙三は俯いたまま葵の横を通り過ぎながら言った。
「母さんの身の回りの物を取りに帰らないと…」
 そんな謙三の背中に葵が畳み掛けた。
「お父さんは自分の事しか考えてないのよ。お母さんの事、女中

 ぐらいにしか思ってないんでしょ。だからお母さんが病気になって

 も気付きもしないのよ!」

 

 その声に謙三は立ち止まった。

 

 葵の言う通りだ。俺は春子に何をして上げたのだろう。病気一つ
しなかった春子に甘えて気遣い一つしてこなかった。

 

 歩き出した謙三はエレベーターの前で立ち止まると、力無く

ボタンを押した。