映像の世紀バタフライエフェクト「大東亜共栄圏の3年8か月」感想 | リタイアライフのつぶやき

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65才でサラリーマン生活からリタイア。さて、これから何をしていこうか。ブログでつぶやきながら日常生活を報告。参考になれば幸いです。

4月24日、NHK総合で映像の世紀バタフライエフェクト「大東亜共栄圏の3年8か月」が放送されてました。興味があったので早速みました。

番組の解説は以下の通りです。

「太平洋戦争において日本は、欧米の植民地支配からアジアを解放するというスローガン「大東亜共栄圏」を掲げる。

東南アジアの人々は日本軍を救世主と歓迎した。だが、実情は、日本精神が強要され、日本に協力する指導者を育成するために現地の秀才たちは「南方特別留学生」として日本へ送り込まれた。

そして戦後、再び経済進出して来た日本に、元留学生たちは向かい合うことになる。大東亜共栄圏は今のアジアに何を残したのか。」とあります。

「太平洋戦争は、ハワイの真珠湾攻撃攻撃の1時間前(昭和16年12月8日未明)、マレーシア攻撃から始まった。

(日本軍の上陸)

日本は、イギリス、アメリカの植民地である東南アジアに軍を進めた。

目的は、戦争に必要な石油資源を獲得することにあった。

付け足しますと、当時、日本の石油は、92%輸入であり、その内81%は、アメリカからの輸入でした。1941年7月、アメリカは、日本への石油禁輸に踏み切る。まさに宣戦布告であった。

(スマトラ島のパレンバン油田)

だが、総理大臣東条英機は、戦争の大義を欧米の植民地支配からアジアを解放するというスローガン「大東亜共栄圏」を掲げた。

「大東亜共栄圏」は、日本人の心をとらえた。

(マレーシア人の人のラジャ・ノン・チック)

マレーシア人のラジャ・ノン・チックは、日本が白人に勝った事に驚嘆した。

シンガポールを陥落後、1942年3月、インドネシアのジャワ島を制圧、ジャワ派遣軍宣伝班が上陸した。

(宣伝班長町田敬二)

宣伝班を率いたのは町田敬二中佐だった。

この時点では、各民族独立のスローガンを掲げて南下した日本軍は、救世軍であり盟主でもあった。

(日本語教育)

町田は、子供たちに学校を作り日本語教育をした。

日本でもインドネシアブームが起きる。しかし、日本軍を歓迎しない国があった。

フィリピンである。アメリカとの約束で1946年独立することになっていた。

アジア解放という日本の宣伝文句に共感するものがいなかった。

(コレヒドール島陥落)

統治しているアメリカ軍とのコレヒドール島での戦いで日本軍は、勝利する。

(バターン死の行進)

7万人が捕虜になる。収容所まで80㎞歩かせ数万人が死亡。バターン死の行進と呼ばれた。

捕虜を虐待したといわれている。

大東亜共栄圏は、ビルマまで含む広大なものとなった。

(南方特別留学生)

日本は、大東亜共栄圏をより強力的なものにするため、日本に協力する指導者を育成することを目的に現地の秀才たちを「南方特別留学生」として日本へ送り込まれた。200人ほどいた。

大東亜共栄圏の人質とも言われた。

王族の血を引くラジャ・ノン・チックも留学生のひとりで、陸軍士官学校に進んだ。

留学生に選ばれたフィリピン人の中にバターン半島の戦いで捕虜になったレオカディオ・デアシスがいた。

1943年、ナダルカナル島撤退。1943年10月、日本軍は、フィリピンの独立を承認し、体裁上の承認を許すことで大東亜共栄圏からの離反を防ぐためであった。

(フィリピンの大統領 ホセ・ラウエル)

フィリピンの大統領に就任したのは、ホセ・ラウエルで、息子は、南方特別留学生のマリアノ・ラウエルである。

1943年11月、大東亜会議開催。中華民国、満州国、ビルマ、タイ、フィリピン、自由インド仮政府の6ヶ国が集まった。

ホセ・ラウエルは、イギリス、アメリカへ宣戦布告する。インドネシアでは、戦争が悪化すると民衆への締め付けが始まった。

(大東亜政略指導大綱)

石油の供給基地であるインドネシアは独立を認める気はなく、大東亜政略指導大綱では、「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」を日本の領土と決定するとある。

日本軍は、インドネシアに対し、オランダ時代を上回る弾圧政策を実施した。

250万人の労務者の徴用があり、農村部では、反乱が起きるようになった。

1944年10月、レイテ島にアメリカ軍上陸。

1945年2月、マニラでは、日本軍と米軍の戦闘があり、フィリピン数十万人が犠牲になった。

1945年8月、太平洋戦争終結。

インドネシアでは、降伏した日本軍の武装解除が行われた。

インドネシアには、再びオランダが植民地化を狙い侵攻。4年に及ぶ戦争が始まる。

(インドネシア義勇軍)

独立のために戦ったのは、インドネシア義勇軍であった。

残留した日本兵2千人は、彼らと共に戦った。1949年12月、インドネシア独立。

フィリピンのラウエルは、対日協力の反逆罪で逮捕される。3年後、恩赦を受け政界に復帰する。

(深夜放送専門のラジオ会社)

1954年、東京有楽町に深夜放送専門のラジオ会社が生まれる。オールナイトニッポンである。ラジオ会社を立ち上げたのは、ジャワ島で宣伝班を率いていた町田敬二であった。

(企業の東南アジア進出)

1970年代、再び日本は、東南アジアに進出した。安い労働力と資源を求めて企業は、工場を構

えた。

新たな大東亜共栄圏だと反日感情が吹きあがった。反日デモが起きる。

この時、日本との関係改善に動いたのは、元「南方特別留学生」であった。戦時下に日本で学んだ若者たちは、戦後、各国の政財界で活躍していた。

(マレーシア人のノン・チックとフィリピン人のデアシス)

関係改善の団体を作り、代表に選ばれたのは、元「南方特別留学生」のマレーシア人のノン・チックとフィリピン人のデアシスであった。

ノン・チックは、政治家に、デアシスは、弁護士になっていた。

その後、東南アジアでは、東南アジアに投入される開発援助資金を使って、鉄道や港湾施設などのインフラを整備し、天然資源の開発では、日本の企業と合弁会社を設立し対日輸出を拡大し成長をとげている。

(アセアン経済共同体が発足)

東南アジアは、新たな国際戦略を打ち出す。2015年12月、アセアン経済共同体が発足。

アセアン諸国が一大経済圏を構成し、大国と対峙する体制を作り上げた。」以上が概略でした。

大東亜共栄圏のスローガンは、欧米の植民地支配からアジアを解放すると言って、当初は、各民族独立のスローガンを掲げていたが、戦況が悪化するにつれ、変質していった。

インドネシアでは、最後、大東亜政略指導大綱では日本の領土にするとまで言っている。

今回の放送では、インドネシアとフィリピンが中心で他の東南アジアの国々がよくわからないので1943年11月の大東亜会議について調べてみました。参加国は、中華民国、満州国、ビルマ、タイ、フィリピン等占領地区の政権の代表で、各国の対日批判の姿勢は強く、「独立尊重」はスローガンの域を出ず、この「大東亜会議」自体も、内実を伴わぬ日本の宣伝の枠を越えるものではなかったようです。

何か大東亜共栄圏構想が前回の「五族協和」と「王道楽土」のスローガンを掲げた日本の傀儡国家「満州国」と似ているような気がしました。

今回、初めて知った「南方特別留学生」について調べると、大学は、気候温暖な宮崎大農学部、九州大工学部、熊本大医学部などが多く、出身地に帰国した留学生からは、その後政治家・教育者・実業家・法律家など祖国の政治・経済の中核を担った人々が輩出したそうです。

最後までご覧になりありがとうございます。

 

 

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