本中毒、映画中毒、仕事中毒、そして...恋愛中毒 -49ページ目

レジロボはコバヤシマルの夢を見るか

この2週間、小売り業界で非常に興味深い新製品/サービスの発表があった。

 

一つは米国のAmazonが発表したコンビニエンスストア『Amazon go』。
もう一つはローソンとPanasonicが発表した『レジロボ』。

 

両者ともスーパーやコンビニエンスストアといった一般小売店の業務効率化に関する発表なのだが、その方向性がかなり違う。

詳細はネット上でそれぞれプレス向きの資料を参照して貰うとして…簡単に説明すると、
Amazonの『Amazon go』は入店時にスマホで個人認証をして、後はカメラ認識によって店内の客を追跡、取った商品を認識、出店時にスマホアプリで自動精算課金するシステム。
ローソンとPanasonicの『レジロボ』は、バーコードリーダのついた籠を使い、客が取った商品のバーコードを読み込ませながらレジに行くと、籠とレジの間で通信が行われ、お金を払ったら自動的に商品が袋詰めされるというシステム。

両者を比べてみると、『Amazon go』の方がスマートで効率的、『レジロボ』は中途半端なシステムで垢抜けしない突っ込み所満載な感じだ。
テレビ朝日のニュースとかは、両者を同じ特集枠みたいな形で放送していたため、『Amazon go』の方がより進んだ取り組みみたいで『レジロボ』は公開処刑になってしまった。
実際は、近いうちに『レジロボ』は今後RFタグも導入し、客がバーコードを読み取らなくても良いシステムになっていくらしいのだが、RFタグをつけるコストを考えるとコンビニで全商品に展開できるとも思えない。
やはりちょっと中途半端な感じだ。


日米のコンビニの自動化のこの差異は、単純に企業間の情報技術のレベルの差ではなく、日米の思想・風土の差を感じさせて興味深い。
レジというモノを合理化/効率化しようとした時、日本は人に代わるロボットを構想し、米国はレジの機能をもっと根源的に見直し通貨の使用をやめてレジを無くすという構想をした。
ローソンとPanasonicの目線が現状に捕らわれたのに対し、Amazonの目線は高い。
メタ思考で一段高い所から、現状を定義し直したわけだ。

 

思い出したのは、スタートレックに出てくる『コバヤシマル』の話である。
『コバヤシマル』というのは、宇宙軍の士官候補生のシミュレーション課題なのだが、絶対クリアする事が不可能な設定になっている。
主人公のカーク船長は、その課題を唯一クリアした士官候補生。
彼はシミュレーションプログラムをクリア可能な様に書き換えてしまうという反則の荒技で、そのクリアが絶対不可能なコバヤシマル課題をクリアしてしまった。
まさにメタ思考。
一段高い視点に立ち、課題そのものを変える事=再定義による課題の解決である。

 

この発想力や課題を解決するバイタリティの差は、日米の現在の社会文化の差から来ているのだろう。
組織内で当たり障りなく業務をこなして小成する技術者やマネージャーの集団の日本の会社文化と、厳しい環境下で企業に縛られずに自分の発想力・技術力を市場に問うことを求められる米国文化の違い。
『Amazon go』の発表を受け、ちょっとした騒ぎになってるであろうローソンとPanasonicの社内の様子を勝手に想像するのは、僕だけだろうか。

技術的には『Amazon go』と同等のシステムをPanasonicも開発できるだろう。
実際に顔認証による決済システムは日本国内でも実証実験が始まろうとしている。
だが、そもそも発想できないモノを開発する事はできない。

 

そんな会社組織の文化や都合には全く関係なく…
レジロボは、客からお金を受け取り、卵を割らない様に「よっこらしょ」と商品を袋の中に落とし込みつづける。
コバヤシマルの夢を見ながら…

 

<追記>
僕個人は日米の組織文化の差は根源的ではない。と考えている。
たとえば、戦争の歴史は、組織の発達の歴史を色濃く反映しているのだが、その分野で日本がメタ思考によって、戦術/用兵のあり方を再定義して歴史的に転換点になった事例は多い。
織田信長の長篠の戦いでの鉄砲の集中的運用。
日露戦争での日本海海戦・T字戦法による多砲門での集中砲火
第二次世界大戦での真珠湾攻撃、そしてマレー沖海戦での、航空攻撃。

これらは全て、それまで常識とされてきた用兵・戦術を、本来の目的とその時代の技術で再定義しなおした結果。

だから日本の会社も、無能なマネージャーが有能な社員の邪魔をしなければ、イノベーティブな良い結果を出すと思うのだけれどなぁ…

もしかしたら僕自身がその無能かも知れないけれど。

居酒屋の下駄箱で靴を履いた時、その靴に違和感を覚える。
中途半端に生暖かい。
5分くらい前まで履いていた靴を履き直した様な感覚。

 

いや、座敷に上がってから3時間は宴会をしていたから、そんな事はないはずだ。
もしかして、他の客の靴を履いてしまったか…
足下を見る。
しかし、見た目も、装着感も、自分の靴に違いない。
不思議なモノで、酔っ払っていても間違えて履いた他人の靴はすぐにわかる。

 

店の前で、しばし考える。

はたと気付く。
これは、店側の粋なはからいに違いない。
客が帰るときに足が冷たく感じない様に下駄箱に暖房で温風を吹いていたのだろう。
なるほど、おもてなしの心だな。

そう感心して帰途に着く。

 

 

翌朝、仕事に行こうとして靴を履く。
また違和感がある。
妙に緩い。

 

足下をよく見つめる。
知らない靴…
昨晩は自分の靴と信じて疑わなかったのだが、いま朝日の中で見ると、どう見ても自分の靴では無い。
そもそも色が違う。

 

昨晩、違和感を感じた時に、なんで、今一度、店の中に戻って確認しなかったのか?
瞬間的に、酔っ払い特有の自己過信とものぐさに、我ながら腹を立てる。
いやいや、飲み過ぎで足が浮腫み、ちょうど良いサイズの靴になっていたし…意味の無い自己弁護が頭の中をくるくるする。
次の瞬間に、僕に靴を履いて行かれた気の毒な誰かの事に思い至り、自己嫌悪で落ち込む。

 

あぁ、やっちまった。
申し訳ないことをした。
お店が開く時間に行って自分の靴を回収して、
この靴の持ち主をお聞きして、お詫びをして…
うーん、めんどくさい事になったなぁ…バックれてしまおうか。
いや、この靴の持ち主は困ってるし、怒ってるだろう。
あぁ、許してくれるかなぁ…
こわい人だったらいやだなぁ、優しい人だと良いなぁ。
あぁ、なんで違和感を感じた時に確認しなかったのだろう。
困ったなぁ…


そんな事を考えているうちに、目が覚めた。

■マンガ 手塚治虫『白いパイロット』

子供の頃、親の仕事の同僚でMさんという家族と交流があった。

Mさんの家には僕より4歳と1歳年長の男の子がいた。

よくそのMさん宅に遊びに行った。

Mさん宅にはマンガがあった。

今では想像もつかないだろうが、当時のマンガには今のコミックスサイズのものと、絵本サイズのものがあった。

Mさん宅にあったのは絵本サイズのマンガだった。

その中でも、手塚治虫の『白いパイロット』に僕は夢中になった。

 

軍事国家 ミグルシャ王国の地下要塞で奴隷として働かされていた主人公達は、最新万能戦闘機ハリケーン号を奪い脱出する。

しかしながら、その過程でミグルシャ首都を爆撃してしまい、世界からは危険なテロリストとして扱われ、受入れ国とミグルシャ王国の非道を世界に訴える機会を失う。

ミグルシャ王国は、戦闘機群をハリケーン号を倒すために派遣する…
 

 

さぁ、どうなる?

 

万能戦闘機ハリケーン号は後の『海底軍艦 轟天号』や『マイティジャック』のイメージ。

『海底軍艦』が1962年 『マイティジャック』が1968年に対して、この『白いパイロット』は1961年。

主人公達をチームにして船に乗せるというアイデアは、実は手塚治虫が先駆けだったのか…

 

さて、実はこまった事があった。

Mさん宅にあった『白いパイロット』は完結していなかった。

いよいよ、これから決戦。という所で、続きの巻がなかったのである。

遊びに来てマンガを読んでいる立場上、早く続きを買えというわけにも行かず、Mさんたちは続きがないという状態で何で我慢できるのだろう?と、僕は悶々とした少年期を過ごす事になる。

僕がその続きを読んだのは、1980年頃に講談社から発売された手塚治虫漫画全集での事。

 

 

先日、マンガ専門書店によったら、手塚治虫文庫全集の棚の前で足が止まった。

『白いパイロット』を購入。

30年ぶりくらいに楽しむ。

 

その末尾の解説で、Mさん宅に『白いパイロット』の続きがなかった経緯がわかった。

Mさんも別に続きを放置していたわけではなかった。

当時、鈴木出版が出していた『手塚治虫漫画全集』自体の発行が頓挫したという。

 

ほぼ、半世紀近くを経て、Mさんの謎も解けた。

その後、没交渉なのだが…

Mさんとこの子供たちは、いまどうしているのだろう。

彼らは『白いパイロット』の続きを読んだのだろうか?

そしてあの鈴木出版の『白いパイロット』はどうなったのだろう?