■映画 『話の話』ソ連
新年あけて、初の三連休。
仕事始めから2日しか働いていないのに、もう三連休。
土曜は病院に行って、日曜は家でゴロゴロして過ごす。
月曜もゴロゴロしようと思っていたら、家人の機嫌が悪い。
食べるだけでゴロゴロし過ぎ、との事。
いや、ここで発言の意図を取り違えてはいけない。
ゴロゴロせずに運動とかに出かけたら、それこそお冠だ。
僕はゴロゴロしているが、家人には普通に家事があるので全然休めてない。
せめて一日でもお出かけして、家事を休みたい。
どこかへお出かけしろ。
と言うのが本音である。
仕方ないので一緒に映画を観に行く事にする。
観たい映画で都合が良い時間割の上映が、『ユーリ・ノルシュテイン特別上映』だった。
ノルシュテインは、80年代にとても人気だったソ連時代のアニメーション作家。
1980年に東京で学生だった僕は、アニドウの上映会で『霧につつまれたハリネズミ』を初めて見た時には椅子から転げ落ちるほど驚いた。
手法自体は古典的な切り紙アニメなのだが、奥行き方向に変化していく霧の表現が素晴らしい。
この霧を表現する技法が、当時どうしてもわからなかった。
現在ならば霧を表現する事はCGを使えば簡単だが、当時のCGはワイヤーフレームから面をベタ塗りしたポリゴンへの移行がようやく始まったばかりのレベル。
CGでそんな事が出来ると思わなかったし、当然CGではなかった。
(余談だがCGで初めて霧を表現したのは、僕の知る限り往年の人気ゲーム『MYST』だ)
4年後に『話の話』が封切られた時に、アニメ誌「アニメージュ」でノルシュテインのインタビューが載っていて、トレペと透過光を使っていると種明かしがあった。
種を明かされても、その霧の幻術的な美しさは素晴らしい。
その美しさに見せられて、1985年にアニメーションアニメーションのレーベルでノルシュテイン作品集のLD『話の話』が出た時に、僕はプレイヤーを持ってなかったのにLDを買った。
実際にLDプレイヤーを手に入れて、そのLDを観られる様になったのは更にその2年後だ。
さて、今回の上映は2016年にノルシュテインのフィルムの修復が実施され、そのフィルム(?)を使っての記念上映会らしい。
ほぼ30年ぶりに劇場のスクリーンで観るノルシュテイン。
上映作品は以下の6作。ノルシュテインの全作品。
始まりの一日
ケルジェネツの戦い
ウサギとキツネ
青鷺と鵲
霧に包まれたハリネズミ
話の話
ただ、一方でノルシュテインは難解な作家でもある。
特に『話の話』は難解。
叙情詩の様な内容で、やたらノスタルジーを???き立てられはするのだが…
その表現内容が具体的に作者のどういう意図によるものなのかはよくわからない…
いや、具体的にはわからないように抽象化されていると考えるべきか。
劇中の子守歌を聴かされながら幻想的な映像を観ていると、睡眠不足の者はいつしか眠りに落ちる。
30年前にも仲間内では催眠アニメと言われていた所以だ。
家人はいつの間にか眠りに落ちて鼾をかいている。
他の人の迷惑にならないよう、つついて起こす。
寝るのは構わないが、鼾はいけない。
『話の話』の後のノルシュテインがどうなったか…寡聞にして僕は知らない。
次作としてゴーゴリー原作の『外套』を作成していると聞いていたのだが、それももう30年くらい前の事。
『外套』は絵本が出版されただけで、アニメーションになったという話は聞いていない。
ソ連が崩壊しロシア共和国に移行する中で資本主義が押し寄せ、国営だったソ連のアニメーション製作体制のエコシステムが破壊されてしまったのではないかと僕は考えている。
ノルシュテインを含め商売と無縁だったソ連のアニメーション作家達は、予算と発表機会を奪われてしまっただろうと勝手に想像している。
実際、ソビエト時代以降、ロシア製のアニメーション作品というのを僕は観たことがない。
なんだかとっても勿体ない。
逆に、周辺の版権ビジネスと絡みながらも、アニメーションが産業として成り立っている日本と言う国は、ありがたい。と考えないといけないのだろうなぁ…
<追記>
ロシアのアニメと言えば『チェブラーシカ』が有名なのだが…
これも実はソ連時代の古いアニメーション。
<追記2>
と思ったら、YouTubeでこんなのが落ちていた。
『外套』はこの未完のまま放置されているのだろうか…
■書評 大藪春彦『野獣死すべし』光文社文庫1997/1
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野獣死すべし (光文社文庫―伊達邦彦全集)
637円
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先日WowWowで松田優作の映画特集があった。
松田優作と言えば、『蘇る金狼』『野獣死すべし』。
両方とも原作は大藪春彦。
昭和の時代の代表的なハードボイルド作家だ。
個人的に、『野獣死すべし」には小林麻美が出てるのがポイントなのだが、それはまた別の話。
あるブログにその大藪春彦の『野獣死すべし』の文章が良いと書いてあった。
引用されている文章は確かに良い。
これは盲点だった。
是非読んでみないといけない。
そう思った。
僕はハードボイルドの文章が好きだ。
マッカーシーやヘミングウェイ…
最近読んだモノだとジェイムズ・ディッキー『救い出される』とか。
ハードボイルドと言うと、探偵モノとかアウトローが暴力団相手に立ち回りしたりする様な内容の作品を指すと、日本では捉えられているが、それはちょっと違う。
「ハードボイルド」とは内容を形容する言葉ではなくて、文体の特徴を示す言葉。
新明鏡国語辞典MX(ポメラ内蔵)によると以下の様に説明されている。
ハードボイルド[hard-boiled]
[名]
冷酷非情な現実を感情を交えずに簡潔な文体で描こうとする創作手法。第一次大戦後のアメリカ文学に現れ、ヘミングウェーをその先駆とする。
◇もとは卵の固ゆでの意。
僕が大藪春彦に期待したのは、この定義通りに簡潔で、なおかつ、美しい文章だった。
最初、その文章は美しかった。
状況の描写と行為の描写は、微妙な平衡を取り互いに映し合っていた。
それは読む者に心地よい緊張をもたらした。
しかし、話が進むにつれ、その平衡は崩れる。
行為の描写の量が増え、状況の描写は減っていく…
ハードボイルド作品の味噌は、行為とその前後の状況の描写の対比により、本来描かれていない感情を逆説的に描く事にある。と僕は考えている。
状況描写で読者の視点を固定し、行為によってそれを解放する。
もしくは、行為に囚われた読者の精神を、状況描写によって解放する。
その固定と解放によって、著者はその情感を映し出し、読者と共有する。
しかし…
『野獣死すべし』では、著者も主人公も行為のみに囚われていく。
固執と解放によるカタルシスは、そこにはない。
僕は白けた気持ちで大藪春彦を読み終える。
たぶんもう読み返す事もないだろう。
新年あけましておめでとうございます。
年が明けて2017年になった。
個人的には大過なく新しい年を迎えることができた。
めでたい。
もちろん、
年賀状書きが年末のギリギリになってとても雑になってしまったとか、
大掃除で張り切りすぎて筋肉痛とか、
いろいろあったのだが…
TVニュースを見ていると、各地の新年のいろいろな行事の様子が放送されている。
これは何かあったという事ではなく、何も変わらずいつもと同じ新年を過ごしているという報告の様なものだ。
その他は、火事、交通事故、そして餅を喉に詰めたニュースだ。
当事者には非常に申し訳ないが…
これも例年と何も変わらない年末年始という報告の様なニュース。
日本は平和だなぁと思いながら、こたつでミカンを食べたりする。
(いや、本当に当事者には申し訳ないのだが…)
