本中毒、映画中毒、仕事中毒、そして...恋愛中毒 -19ページ目

■アニメ 『高畑勲展 日本のアニメーションに遺したもの』2019-2020

昨年、東京で展示された『高畑勲展』が、今度は岡山県立美術館で9/27まで開催された。
当初は4月に開催予定だったのだが、新型コロナの関係で延期。
入場者を制限しながら8月からの開催となっていた。

何で岡山?と思っていたのだが、高畑勲は出身こそ三重だが、その後の青少年期・高校卒業までは岡山で過ごしていたとの事。

つまりゆかりの地。

そのうち大阪でも開催されるだろうと思っていたのだが、どうもそうも行かない様だ。

展示会の関係者の知り合いに話を聞くと、もう他での開催予定は無いとの事。
貸し出し資料の権利関係が難しいらしい。
これは大変。それならば大阪から少々遠いが岡山で観ておかねばならぬ。と、この週末に岡山に慌てて出かけた。

 

オヤジにとっては1960年代の東映動画、特に『ホルス』に関するいろいろな資料が展示されているのが嬉しい。

 

僕にとっては、高畑勲は、僕にとっては『太陽の王子 ホルスの大冒険』『母をたずねて三千里』の監督。

大学時代には心酔していた監督でもある。

一方で、東映動画でTVアニメをやっていた時のいろいろな噂や、僕自身が観に行った講演会で『リトルニモ』の質問に激昂する姿を見て、ちょっと難しい人だなぁ…とも思っていた。

80年以降は僕の心の琴線に触れるアニメを作ってくれなくなっていて、過去の人になっていたのも事実だ。

 

今回の展示会でわかった事が何点かある。

 

まず、高畑勲と言う人は締め切りを守れない人だ。という事。

まぁ、これは展示会でなくても少し日本のアニメーションに詳しい人なら認識していた事なのだが…

彼は『完璧主義者』で、作品中で大きな挑戦を行い、可能な限り納得行くまで作品を見直そうとする。

初監督作品の『ホルス』製作時の、スケジュールの遅れ、製作費オーバーもその結果と推測される。それは更に製作中断になり、更に作品自体に瑕瑾を残した。
後の『ホタルの墓』でも公開に、背景/仕上げが間に合わずに、赤紫の背景にトレス線だけのカットができてしまった。
『かぐや姫の物語』は公開自体が1年ほど遅れる事になった。

そんな監督が『ハイジ』『三千里』『アン』を週1本仕上げられたなぁ…と逆に感心するのだが…

(レイアウトシステム+宮崎駿による所が大きいと思われる)

 

2点目は描線に対するこだわり。

『かぐや姫の物語』。

作品自体は全然面白くなかったのだが、鉛筆の描線を活かした独特の美術は印象的だ。

この描線を活かすという事に、高畑はずっとこだわっていた。

かぐや姫の美術はその前作『隣の山田くん』の頃にその萌芽がはっきりと見て取れるのだが、実はその試みは『ホルス』でのマシントレス導入から始まっていた。

 

アニメの製作過程を見ると、原画の活き活きした線で描かれた魅力的な絵が、動画にトレスされる時点で一本調子の均一な線ののっぺりした残念な絵になってしまう…

かぐや姫はその制約を取り払う為にかなりの労力をかけた様だが、その試みは2つの意味で上手く行かなかったと僕は思う。

一つは、そもそもキャラクターデザインがその鉛筆の微妙なタッチを魅力的に活かす様なデザインではなく、また画面作りも鉛筆のタッチを活かせる様な距離の画面が少なく、どちらかと言うと少し離れすぎた画が多く描線が小さくなりすぎた事。

二つ目は、そもそもかぐや姫の話の脚本内容と上記の鉛筆の線を活かした美術の組み合わせに必要性を感じられなかった事。

アニメーションの製作過程を考えると、描画ソフトとタブレットの組み合わせでよかったのではないかと思うのだが、高畑は紙と鉛筆に拘った。

個人の目指す完璧主義によって、出口のない袋小路に入り込んでしまったように見える。

こういう部分も高畑らしいと言えばご愛敬なのだろうか…
 

<余談>

個人的には、描線の問題は、カナダのフレデリック・バックの作品や、セルを使えないアマチュアの紙アニメの方が、素朴で良い解決策だと思うのだが…

髪が薄い話

残暑に耐えかね、頭を丸刈りにしてから1週間ほど後の話。
家人が洗面所の整髪剤を整理しろと言う。

はて、俺は3本しか置いていないはずだが…
何で3本も要るんです?
育毛剤の使いかけが1本、新品が1本、寝癖を直して髪形を整える整髪剤が1本…
整髪をするだけの髪の毛が無いじゃないですか!
いや、これは暑いから坊主刈りにしただけで、涼しくなったら髪の毛を伸ばして必要になるから…
必要にはなりません。

なんと失礼な…

■書評 宮本裕子『フライシャー兄弟の映像的志向: 混淆するアニメーションとその空間』水声社

 

 

フライシャー兄弟はアニメーション黎明期の1910~1940に活躍したアニメ作家/製作スタジオ。
1930年代後半~1940年台前半にかけて、ディズニー以外で唯一長編アニメーションを製作できたスタジオでもある。

ディズニーに比べると評価が低いのだが、愛好者は多い。

代表作はインク壺のココ、ベティブープ、ポパイ、『バッタ君街へ行く』、そして『スーパーマン』

 

本書は、そうしたフライシャー兄弟の作品を「異空間との混淆」を切り口に評価し直す野心的な試み。

フライシャーのアニメーションを語る上で、一つの方向性、里程標を確立した力作と言って良いだろう。

お奨め。

 

本書で言う異空間との混淆とは、主に以下の4つの混淆を言う。

  • 絵の空間 ― 実写映画の空間
  • アニメの動き ― ロトスコープ
  • 描かれた空間 ― ミニチュア(ステレオオプティカル)で作られた空間
  • 小人や虫たちの空間 ― 人間の空間

ディズニーのマルチプレーンとかの技術が作品世界の統一感を追求していたのに対し、フライシャーのそれは、異なった表現手法で相互の違和感を際立たせる事で何かを表現しようとしていた。

と言うのが、噛み砕いた著者の主張。 (これは僕の噛み砕き過ぎかな…)

 

この主張に、僕は全面的に賛成。

 

確かにアニメーションが当たり前になってしまった今日的な視点で観ると、ディズニーのシリー・シンフォニーのシリーズはアニメ技術以外は退屈なのに対し、フライシャーの作品は意外性に満ちていて、未だに凄く新鮮で面白い。

世の母親たちはそこにエロスや退廃を敏感に感じ取って顔を顰めるのだろうけれど…

 

<追記>

ディズニーの音楽がクラシックなのに対し、フライシャーのはジャズなのが、そのまま彼らの作品の方向性の違いを表しているのが、当たり前と言えば当たり前、不思議と言えば不思議。