クリスマスには飽き飽き
この間切り絵教室で、
「クリスマスって毎年毎年来るから飽きてきた・・・」と言うと、笑いが起こり、
「お正月も毎年来ますけど~」というコメントもいただきました。確かに毎年来ますね。
クリスマス→お正月→バレンタイン→おひなさま→ご入学→こどもの日→母の日→父の日→夏休み→お盆→ハロウィン→クリスマス。イベント当日にはもう次のイベント用の飾りつけに変えられる。これは資本主義経済のせいです。
とにかく一時でも「何でもない期間」が欲しいなあ。
子供は保育所でクリスマス会があるのです。
クリスマス会当日は「おしゃれ可」とのこと。普段、髪にシュシュをつけたりスカートで来ることが禁じられている子供たちもその日は許されるみたい。
クリスマス、浮かれる派と浮かれられない派があると思います。
浮かれられるのは、季節イベントの影響が少ない仕事をされている人かな。
季節イベントに関りがあるのは、例えばお店に勤めている人。以前デパ地下勤務していたころには25日の閉店前には飾りつけや商品をお正月用に切り替えていかないといけないので、大変でした。ケーキなんかは売り残したくないとか、クリスマスの売り上げが昨年度より少なくならないようにしないといけなかったりとか。
小売業もそうですが、企画運営行の方もそうですね。クリスマスケーキのデザインやカタログは夏から作り始められますし、デザイナーやイラストレーターさんは暑い中、暖かそうな食卓イメージや、暑苦しいサンタさんを描かねばなりません。もう、全然クリスマス楽しめない。
夏からクリスマスなので、もう飽きちゃっていたりします。
子供の頃がやはり一番クリスマスが心から楽しく、ときめくものです。
しかし。
当家も3歳児にクリスマスがやってくるのですが、ものごとがまだ全くわかっていない2歳児になかったクリスマス問題勃発。
これは次の記事に委ねます。明日も読んでくださいね~。
冬の薔薇 なきながらピョンピョン飛ぶひばり
寒いですね。
さざんかが咲く頃ですが、庭に薔薇が咲きました。
つぼみが沢山。
冬に薔薇が咲くなんて。
グリム童話にある「なきながらぴょんぴょん飛ぶひばり」では末娘が街に出る父親に、薔薇をお土産にと頼むのですが、魔法の庭に頼らなくても横山家の庭に咲いていました。「なきながらぴょんぴょん飛ぶひばり」は「美女と野獣」というアニメーションでお馴染みのお話です。
昔話というものは類話がいくつもあり、読み比べるのも面白いものです。わたくしの好きな画題「いばらひめ」はドイツのグリム兄弟のお話ですが、フランスではペローの「眠れる森の美女」となり、イタリアではバジーレの「日と月とターリア」というお話になります。それぞれのお国柄が感じられ、興味深い。
なぜ冬に薔薇が咲くのか、謎ですが、薔薇は聖母の花です。
今、聖母作画中です。
A3くらいのサイズの予定が、B2くらいになってしまった私に天が与えたもうたのかも・・。
そこを強調せんでよろしい
今日のブログは、NHKの日曜美術館の前に放送されている「ヨーコさんのことば」風に読んでいただけると面白くなると思います。↓
美人でない人は自分が美人でないということはわかっているものである。
たとえ、美人が美人であるということを承知していても、他へ向かって、
「わたしは美人である」
などと言うことはない。絶対に、ない。
美というものは奥ゆかしさと共に居てこそ美しいのである。
それを、知らない人もいる。
私の夫はストレス体質で、常に自分の境遇を嘆いている。
自分の力量を発揮するに足りない仕事ばかりやらされている。 とか、
お金持ちの親の元に生まれたらよかったのに、 とか、
受け取り方によっては幸いである場合にも、それを不幸としか受け取れないストレス体質だ。
ため息ついてばかり。そんな夫を慰めるつもりで私はこう言っていた。
「でも、かわいい娘と、美人の奥さんがいてよかったわね」
夫はいつも渋い顔で聞いていたが、ある時ついにこう言った。
「いや、美人ではない」
ここで、冒頭で述べたことを繰り返すが、
美人でない人は自分が美人でないということはわかっているものである。
たとえ、美人が美人であるということを承知していても、他へ向かって、
「わたしは美人である」
などと言うことはない。絶対に、ない。
美というものは奥ゆかしさと共に居てこそ美しいのである。
それを、夫は知らないのだ。
人間は、自分がわかっているつもりでいることを、重ねて言われると腹が立つものである。
私はおおいに腹を立てた。夫は、自分の妻が自分を不美人と承知していることを知らないでいるばかりか、少しでも幸せに気付いてほしいという妻の願いを察することができないのだから。
「しあわせは心の持ちよう」と、ターシャ・テューダーは言っています。
私たちの心には庭があって、絶えず手を入れていないとすぐ草がぼうぼうと生え、右に行けば何があるのか、左に行けば何があるのか、どこへ向かえばいいのかわからなくなる。抜いても抜いても生えてくる草を引き、庭の手入れを怠らないことは、並大抵の苦労ではない・・・と、シュルツ(ピーナッツ(スヌーピー)の作者)は言っています。
とはいえ、夫の言葉に一番傷ついたのは四十路の女心であった。
美人でないことはわかっている。だから、
そこを強調せんでよろしい。
おんなし帽子かぶってる!
今作画のお仕事が空いてきて、クリスマスカードのために我趣味全開の絵を描いています。描いているのを見た子供が、
「きれい~」
と言ってくるのですが、ほんとにそう思っているのか可愛いもの以外のものを見たらそう言っているのかはわからない。
ですが、マリア像の参考にしている、カルロ・クリベッリの画集を見て、
「おんなし帽子や」
と、キリストとマリアの頭の後ろの光輪を指します。
こちらがカルロ・クリベッリ。
こちらが横山路漫。
頭の周りにあるので帽子と思ったらしい。他には、
「赤ちゃんがお尻の方やけど、
前向けで、違うなあ」
と、キリストが後ろ向きで描いてあるのと前向きで描いてあるのとの違いに気が付いたようです。似てるけど違うという間違い探しと同じところ探しができるようになったんだなあと思いました。
そして、
「これ(クリベッリの画集)は、なんなん?」
と画集について聞いてくるので、
「このご本は~、カルロ・クリベッリっていうおじさんが描いた絵がいっぱい描いてあるの」
と答えたところ、
「おじさんが、めいちゃんにくれたん?」
というので、そこで説明すると長くなってわからないだろうし、
「カルロおじさんが、「めいちゃん、僕が描いた絵見てくださいね」って」
と言いました。この答大丈夫かな~と思っていたら、子供は本はカルロおじさんが自分にくれたものだと思ってしまい、手荒にページをめくりだしたので、この本はママの大事なものでもあるので、シワったり折ったりしないように!という補足事項が入りました。
そうすると今度は自分の絵本を読み始めました。自分が好きにできる本の方がいいんだな~と絵の続きを描こうとしたら、
「ママ、これ読もう~これ、見て~」
と結局絵を描くことは続行できなくなりました。
君がいるからの母子像なんだけど、君がいるのでなかなか進みません。












