とてもとても美しい、おばあさんを見かけた。


それで、
ふと思ったこと。


「変わらないね」と会うたびに言う人。
思う人。
久しぶりに会った時、集まった時、
挨拶のように、交わす言葉。


20代、30代、
変わらないと言い合い続けてきて、
長い付き合いになって、
ところでいつ、わたしたちは、
あ、変わったって思うのかな?


例えば、肌ツヤ、という観点に限って言えば、
50代の「美魔女」はいても、
70代、80代になったら、
どうしたって人は、
きっとかなり変わってるはずだ。


いつか、あ、変わったなって、思うのかな。

徐々にだから、気づかないのか?
いやいや、そんなことないだろう。



でもそれって、
皺の数が増えたとか白髪が増えたとか
髪が薄くなったとか
太ったとか痩せたとか
そういうことじゃないのかもしれない。


変わらない その人の何か


笑い方とか
考え方とか
話している時の、テンポや、間の取り方とか?



その人の中に、
お互いの中に、
変わらないものを見続けられる関係って
すごく素敵なことかもしれない。


変わらないねって言い合うことを、
ほんとにただの挨拶なのか、
果てしなくポジティブなのか、
自己中心的なのかと、
正直、何だか白けた気持ちでいた頃があったけど(目尻の皺が、ひどいことになってるのよ!とか)
それが、歳を重ねた場合の、外見的なこと(だけ)でなくて内面的なことで(も)あると感じ、
そして、
お互いを知り合ってきた記憶の交換のような気もして、
悪くないというか、
心地よいとも言えるような、
気持ちになってきた。


きっとあのおばあさんも、
若い時から素敵な雰囲気をムンムン醸し出して、
(或いは、多少の片鱗だったかもしれないけれど)
今もきっと、
お友だちに、「変わらないわね」って、言われてるに違いない。


ほんとのじぶんと向き合うことほど、難しことはないなと、思う。


じぶんのことはじぶんがよくわかっている、
はずだし、べきだし、
そう思っていたけれど、
そんなことは、到底無理なんだという実感がある。


じぶんの全部を、
じぶんは見ることができないし、
感じることができないし
何しろ、
じぶんが思うじぶんと、
たにんが思うじぶんと、
継ぎ足していったものが、
社会的な存在としてのじぶんだ。


そもそも。

そんな、
昔真面目に学んだような論理を持ち出してこなくても、
時に、
じぶんの知らない、気づかない、忘れていたじぶん、を、
「こうだよ」
って教えてもらうことが、
本当に救いになることがあるんだって、
この一ヶ月くらい、ひしひしと感じている。


そういう、
たにんによるじぶんのコラージュ作業は、
学校とか会社とかそういう場所では、
フィードバックとか面談とかいわれて定期的に行われていて、
存在として必須なプロセスだということだって明白ではあるのだけど、
とはいえ、
十分に、
そういう時間を取ることは、
実はなかなか難しいんだと、
最近は、わかってきました。


量も質も。


なんだかんだで、
基本的には、
じぶんはお互いに、
じぶんのことに精一杯忙しくしているわけで。


ベンチャーと言われる会社に転職したり、
ママになったりしてから、
環境的にも時間的にも、
そういうコミュニケーションから遠ざかっていたのだと、思います。


年齢的にも、
フェーズ的にも、
じふんをどう思いますかって、たにんに聞くのも違う(恥ずかしい)気がしてたし、
言ってくれる人がどんどん少なくなってきているのは事実だし、
そういうのが重なっていた。


それで、
大体、じぶんだけでじぶんを組み立てていると、
すごく、がんじがらめになる。

もはや、独りよがりかもしれないのに、
「じぶんっぽい」振る舞いを、してみたり。
環境的な「こうあるべき」が先行して、
今この瞬間のじぶんの気持ちが置いてきぼりだったり。


そうして、
どうにも落ち込む時、
混乱にある時、
じぶんの真っ黒いところだけが、
じぶんになっていき、
じぶんは本当に取るに足らない人間だとか、
価値がないとか、
最低だとか、
そういうことばかり考えてしまったり。

つまり、恐らく、長らく、わたしは
じぶんをいびつに組み立てており、
ピンチ!
だったのかもしれない。


若輩ながら
人生の中で一番かもしれないピンチの真ん中に、
いたのかも(いるのかも)しれない。


それでいて日常は、
家事も育児も仕事も、
「求められるじぶん」(と思い込んでいるものも、含めて)らしく、
こなさなくてはならないというアンバランス。


ぐらぐらと、揺らぐ毎日に、
「じぶんが知らないところで」限界が来ていた模様で、
参ってしまって、
もう、
ぐちゃぐちゃになって、崩壊寸前!というところで、
ここ数週間、
昔の上司や、
先輩や、
同期や、
母親に、
次々と会うことができました。


まるで、この時期に、どん底が来るよって、
分かってたかのように、
巡り合わせのように、
そういう人たちと会う予定が入っていたり、
たまたま会うことになったり、
それで、
わたしが落ち込んでいることを、
その場で打ち明けた人、打ち明けてない人、
さまざまだけれど、
たまたま、
「あなたって(昔から)こうじゃん?」
っていうような話を、
してもらう時間が、あって、
なんか、
あー、そうだったなー、とか、
そうだったんだ、とか、
そうかもしれないな、とか、
ボロボロになったじぶんを、
外側からペタペタと、
「手当て」していくような感覚が、湧いてきた。


情けないフィードバック、
自信に満ちた、すこぶる元気な?じぶんだったら、
「わかって(もらえて)ない」とか
「そんなことない!」って
思ってしまいそうなことも含めて、
ああ、そうかなぁ、と、身に染み入ってきて、
じぶんが気づいてなかった(気づいていないふりをしていた)じぶんとか、
すっかり忘れてしまっていたじぶんを、
拾い集めて、修繕しているようなプロセス。


もちろん、
そういう懐かしい人たち、大切な人たちと離れている間に、変わった部分もあるだろう。


特に、じぶんでは、
すっかり断絶されてしまったと感じ続けてきた、
出産の前と後、
何度かの流産の前と後。
社会的な「〇〇として」が増えて来たこと。
挫折感。
心身の大きな大きな変化。


でも、それはそれ、これはこれ。
じぶんの知るじぶんも、
たにんの知るじぶんも、
過去のじぶんも現在のじぶんも、
消えることのない、
重なり合ったじぶん。


じぶんが経験したことは、
じぶんの内にしかないし、
じぶんの内にある闇は、
きっと誰だって、誰とも分かち合えない。

一番近くにいる家族とも。

それに、それが一体どこまで果てしなく深いのかというのも、
実は、じぶんですらわからない。
その、怖さや孤独。


でも、それが、
きっと誰しもが生きているじぶん。


じぶんを作るのは、
家族であり友人であり同僚であり、
そこらへんでリアルにバーチャルに出会う人である一方で、
わたしと24時間365日一緒にいて、
わたしととことん向き合うのは、
結局のところわたしだけ、じぶんだけであるという孤独とどう戦い続けるかは、
逆説的なような真実なんだなと、
思う。


ほんとのじぶんとは、
じぶんの中と外を行ったり来たり、
じぶんの周りをぐるぐると回ってみたり、
上から下まで眺めてみたり、
感じてみたり、
聞いてみたり、教えてもらったり、
して、
そこにあるもの。


このプロセスそのもの。


まとめると、
わたしは、
不要に真面目で、
不器用な人間なのだということに、
尽きるようです。


こういうことを考えちゃうところとか、が。


もっとこうだったらなぁ、ああだったらなぁと、思うけれど、
かなしいかな、
そんなツマラナイじぶん、
でも、
そのおかげで、
今のじぶんがあるということのようです。

今のじぶんのしあわせが、あるということのようです。

わたしがおばさんになっても♪

 

 

って、もう世間的には(世代的には)立派なおばさんになってるのでなんかなぁ、

ですが、

おばあさんになったら…

っていうのは、あんまり想像が及ばず、

(ぴっちぴちな時代に、「おばさん」をそう思っていたのと同じくらい)

正直、

未知だと思ってて、

無関係だと思っている。

(親が老い(てい)ることだって、まだギリギリ、想像できない(したくない)世代であるとも、思う。)

 

 

けれど、最近ちょっとずつ、

ああでも、きっとあっという間にそんな日が来るのかも、

ということを、

感じるような出来事も、増えてきてた。

 

 

この頃、ママやパパや、たぶん保育園でのお兄さんお姉さんの真似などをして、何かと人の世話を焼きたがる一人っ子ぼっちゃん。

 

 

わたしの口にごはんを運びたがったり、

歯磨きを手伝おうとしたがったり。

 

それで、結構困るので(歯磨きとか、口の中引っ掻き回されるので危ないし…)、

冗談で何気なく、

「そういうのは、じゃあ、ママがおばあちゃんになったら、やってくれる?」

なんて言ってみたら、

「なんで?」

と会話が続くので…

 

「おばあちゃんになったら、自分でごはんが食べられなくなったり、歯も磨けなくなったりするかもしれないでしょ?そうしたら、ぼっちゃんママのこと手伝ってくれる?」

 

といった風に、

自分がおばあちゃんになったら…という話を展開をすることになり、

結構リアルに、

「今、息子にしてあげていること(お世話)を、いつか、自分がされる日が来るのかもしれない」

(この場合、息子というのは例えばであって、それは誰か別の人かもしれないですけども。)

ということが想像されて、

ドキっとしてしまったわけです。

 

 

例えば、子育てで、「面倒くさいなぁ、もう」と思ってやっていることを、

自分が、またいつか、子どもや誰かに、思われながら、お世話になる日が来るのかも、

という、ドキっ。

 

(より正確には、そういうことを親にやってもらっていたというドキっ、も、あります。)

 

そして、今が永遠ではないというシンプルな事実への、ドキっ。

 

 

わたしたちの父や母が、息子にとっての「じいじ」や「ばあば」であること、

「ぼっちゃんが大きくなったら、ママはおばあさんに、パパはおじいさんになる」

ということを伝えると、

「さみしい」

と一言。

 

 

年を重ねること、

今の関係が変わっていくこと、

それについて、

この小さな子の中に、

「さみしい」って感覚が、あるんだなぁ、

と、

すごく驚いて、

そして、

分かってはいるけれど、

わたしもさみしくなった。

 

 

「大きくなったね」

「お兄ちゃんになったね!」

「ぼくもう、おっきいよ!」

「うん、ぼくお兄ちゃんになったよ!!」

 

 

と、成長は、

親にとっても子にとっても、喜びであると同時に、

わたし(たち)自身の老いであり、

関係性の変化であり、

別れの日に近づいていることであり、

さみしいこと、切ないことでもある。

 

 

それで、

保育園から持って帰ってくる身体測定カードなんかを見ながら、

「わぁ、ぼっちゃん、また大きくなったんだね!」

と言うと、

「ママ、おばあちゃんになっちゃうの?…さみしい」

なんて言われた日にはねぇ。。。

 

涙が出そうですよ。

 

そう、ママはおばあちゃんになっていって、

いつか君と離れてしまうよと。

(実際には、オットの経験談+諸先輩方の話によると、男子は小学校高学年ですでにかなり離れて行かれるようですが…涙)

 

 

子どもの、18歳とか35歳とか想像すると、

自分の50代、60代、70代…がぼんやりと想像されて、

キュンと胸が締め付けられます。

 

 

 

でも、時々、

「ママがおばあちゃんになったら、自転車に乗せてあげる」とか

「ママがおばあちゃんになったら、てって(手)つないで一緒にお散歩してあげるね」とか

「ぼっちゃんがお兄ちゃんになったら、ひっひ(火)使ってお料理してあげるから、ママおうち(リビング)で待っててね」とか言われると、

もし、そういう穏やかな老後(?)が訪れるのであれば、

それも面白いなぁと、

幸せも、進化していくのかもしれないと、

それを楽しもうと思えばいいのかもしれないと、

(あ、言ってたのと違う!これだから人生は…みたいなものを、噛み締めたりする余裕も含め…)

考えたりもしています。

 

 

もちろん、そんな先のこと、どうなるかわかりませんが。

 

 

世代がめぐることへの考察と、

こういう単純で複雑な感情を得られるのも、

こういう日々のおかげであると、

人生に、ささやかに、感謝します。