ほんとのじぶんと向き合うことほど、難しことはないなと、思う。


じぶんのことはじぶんがよくわかっている、
はずだし、べきだし、
そう思っていたけれど、
そんなことは、到底無理なんだという実感がある。


じぶんの全部を、
じぶんは見ることができないし、
感じることができないし
何しろ、
じぶんが思うじぶんと、
たにんが思うじぶんと、
継ぎ足していったものが、
社会的な存在としてのじぶんだ。


そもそも。

そんな、
昔真面目に学んだような論理を持ち出してこなくても、
時に、
じぶんの知らない、気づかない、忘れていたじぶん、を、
「こうだよ」
って教えてもらうことが、
本当に救いになることがあるんだって、
この一ヶ月くらい、ひしひしと感じている。


そういう、
たにんによるじぶんのコラージュ作業は、
学校とか会社とかそういう場所では、
フィードバックとか面談とかいわれて定期的に行われていて、
存在として必須なプロセスだということだって明白ではあるのだけど、
とはいえ、
十分に、
そういう時間を取ることは、
実はなかなか難しいんだと、
最近は、わかってきました。


量も質も。


なんだかんだで、
基本的には、
じぶんはお互いに、
じぶんのことに精一杯忙しくしているわけで。


ベンチャーと言われる会社に転職したり、
ママになったりしてから、
環境的にも時間的にも、
そういうコミュニケーションから遠ざかっていたのだと、思います。


年齢的にも、
フェーズ的にも、
じふんをどう思いますかって、たにんに聞くのも違う(恥ずかしい)気がしてたし、
言ってくれる人がどんどん少なくなってきているのは事実だし、
そういうのが重なっていた。


それで、
大体、じぶんだけでじぶんを組み立てていると、
すごく、がんじがらめになる。

もはや、独りよがりかもしれないのに、
「じぶんっぽい」振る舞いを、してみたり。
環境的な「こうあるべき」が先行して、
今この瞬間のじぶんの気持ちが置いてきぼりだったり。


そうして、
どうにも落ち込む時、
混乱にある時、
じぶんの真っ黒いところだけが、
じぶんになっていき、
じぶんは本当に取るに足らない人間だとか、
価値がないとか、
最低だとか、
そういうことばかり考えてしまったり。

つまり、恐らく、長らく、わたしは
じぶんをいびつに組み立てており、
ピンチ!
だったのかもしれない。


若輩ながら
人生の中で一番かもしれないピンチの真ん中に、
いたのかも(いるのかも)しれない。


それでいて日常は、
家事も育児も仕事も、
「求められるじぶん」(と思い込んでいるものも、含めて)らしく、
こなさなくてはならないというアンバランス。


ぐらぐらと、揺らぐ毎日に、
「じぶんが知らないところで」限界が来ていた模様で、
参ってしまって、
もう、
ぐちゃぐちゃになって、崩壊寸前!というところで、
ここ数週間、
昔の上司や、
先輩や、
同期や、
母親に、
次々と会うことができました。


まるで、この時期に、どん底が来るよって、
分かってたかのように、
巡り合わせのように、
そういう人たちと会う予定が入っていたり、
たまたま会うことになったり、
それで、
わたしが落ち込んでいることを、
その場で打ち明けた人、打ち明けてない人、
さまざまだけれど、
たまたま、
「あなたって(昔から)こうじゃん?」
っていうような話を、
してもらう時間が、あって、
なんか、
あー、そうだったなー、とか、
そうだったんだ、とか、
そうかもしれないな、とか、
ボロボロになったじぶんを、
外側からペタペタと、
「手当て」していくような感覚が、湧いてきた。


情けないフィードバック、
自信に満ちた、すこぶる元気な?じぶんだったら、
「わかって(もらえて)ない」とか
「そんなことない!」って
思ってしまいそうなことも含めて、
ああ、そうかなぁ、と、身に染み入ってきて、
じぶんが気づいてなかった(気づいていないふりをしていた)じぶんとか、
すっかり忘れてしまっていたじぶんを、
拾い集めて、修繕しているようなプロセス。


もちろん、
そういう懐かしい人たち、大切な人たちと離れている間に、変わった部分もあるだろう。


特に、じぶんでは、
すっかり断絶されてしまったと感じ続けてきた、
出産の前と後、
何度かの流産の前と後。
社会的な「〇〇として」が増えて来たこと。
挫折感。
心身の大きな大きな変化。


でも、それはそれ、これはこれ。
じぶんの知るじぶんも、
たにんの知るじぶんも、
過去のじぶんも現在のじぶんも、
消えることのない、
重なり合ったじぶん。


じぶんが経験したことは、
じぶんの内にしかないし、
じぶんの内にある闇は、
きっと誰だって、誰とも分かち合えない。

一番近くにいる家族とも。

それに、それが一体どこまで果てしなく深いのかというのも、
実は、じぶんですらわからない。
その、怖さや孤独。


でも、それが、
きっと誰しもが生きているじぶん。


じぶんを作るのは、
家族であり友人であり同僚であり、
そこらへんでリアルにバーチャルに出会う人である一方で、
わたしと24時間365日一緒にいて、
わたしととことん向き合うのは、
結局のところわたしだけ、じぶんだけであるという孤独とどう戦い続けるかは、
逆説的なような真実なんだなと、
思う。


ほんとのじぶんとは、
じぶんの中と外を行ったり来たり、
じぶんの周りをぐるぐると回ってみたり、
上から下まで眺めてみたり、
感じてみたり、
聞いてみたり、教えてもらったり、
して、
そこにあるもの。


このプロセスそのもの。


まとめると、
わたしは、
不要に真面目で、
不器用な人間なのだということに、
尽きるようです。


こういうことを考えちゃうところとか、が。


もっとこうだったらなぁ、ああだったらなぁと、思うけれど、
かなしいかな、
そんなツマラナイじぶん、
でも、
そのおかげで、
今のじぶんがあるということのようです。

今のじぶんのしあわせが、あるということのようです。