わたしがおばさんになっても♪
って、もう世間的には(世代的には)立派なおばさんになってるのでなんかなぁ、
ですが、
おばあさんになったら…
っていうのは、あんまり想像が及ばず、
(ぴっちぴちな時代に、「おばさん」をそう思っていたのと同じくらい)
正直、
未知だと思ってて、
無関係だと思っている。
(親が老い(てい)ることだって、まだギリギリ、想像できない(したくない)世代であるとも、思う。)
けれど、最近ちょっとずつ、
ああでも、きっとあっという間にそんな日が来るのかも、
ということを、
感じるような出来事も、増えてきてた。
この頃、ママやパパや、たぶん保育園でのお兄さんお姉さんの真似などをして、何かと人の世話を焼きたがる一人っ子ぼっちゃん。
わたしの口にごはんを運びたがったり、
歯磨きを手伝おうとしたがったり。
それで、結構困るので(歯磨きとか、口の中引っ掻き回されるので危ないし…)、
冗談で何気なく、
「そういうのは、じゃあ、ママがおばあちゃんになったら、やってくれる?」
なんて言ってみたら、
「なんで?」
と会話が続くので…
「おばあちゃんになったら、自分でごはんが食べられなくなったり、歯も磨けなくなったりするかもしれないでしょ?そうしたら、ぼっちゃんママのこと手伝ってくれる?」
といった風に、
自分がおばあちゃんになったら…という話を展開をすることになり、
結構リアルに、
「今、息子にしてあげていること(お世話)を、いつか、自分がされる日が来るのかもしれない」
(この場合、息子というのは例えばであって、それは誰か別の人かもしれないですけども。)
ということが想像されて、
ドキっとしてしまったわけです。
例えば、子育てで、「面倒くさいなぁ、もう」と思ってやっていることを、
自分が、またいつか、子どもや誰かに、思われながら、お世話になる日が来るのかも、
という、ドキっ。
(より正確には、そういうことを親にやってもらっていたというドキっ、も、あります。)
そして、今が永遠ではないというシンプルな事実への、ドキっ。
わたしたちの父や母が、息子にとっての「じいじ」や「ばあば」であること、
「ぼっちゃんが大きくなったら、ママはおばあさんに、パパはおじいさんになる」
ということを伝えると、
「さみしい」
と一言。
年を重ねること、
今の関係が変わっていくこと、
それについて、
この小さな子の中に、
「さみしい」って感覚が、あるんだなぁ、
と、
すごく驚いて、
そして、
分かってはいるけれど、
わたしもさみしくなった。
「大きくなったね」
「お兄ちゃんになったね!」
「ぼくもう、おっきいよ!」
「うん、ぼくお兄ちゃんになったよ!!」
と、成長は、
親にとっても子にとっても、喜びであると同時に、
わたし(たち)自身の老いであり、
関係性の変化であり、
別れの日に近づいていることであり、
さみしいこと、切ないことでもある。
それで、
保育園から持って帰ってくる身体測定カードなんかを見ながら、
「わぁ、ぼっちゃん、また大きくなったんだね!」
と言うと、
「ママ、おばあちゃんになっちゃうの?…さみしい」
なんて言われた日にはねぇ。。。
涙が出そうですよ。
そう、ママはおばあちゃんになっていって、
いつか君と離れてしまうよと。
(実際には、オットの経験談+諸先輩方の話によると、男子は小学校高学年ですでにかなり離れて行かれるようですが…涙)
子どもの、18歳とか35歳とか想像すると、
自分の50代、60代、70代…がぼんやりと想像されて、
キュンと胸が締め付けられます。
でも、時々、
「ママがおばあちゃんになったら、自転車に乗せてあげる」とか
「ママがおばあちゃんになったら、てって(手)つないで一緒にお散歩してあげるね」とか
「ぼっちゃんがお兄ちゃんになったら、ひっひ(火)使ってお料理してあげるから、ママおうち(リビング)で待っててね」とか言われると、
もし、そういう穏やかな老後(?)が訪れるのであれば、
それも面白いなぁと、
幸せも、進化していくのかもしれないと、
それを楽しもうと思えばいいのかもしれないと、
(あ、言ってたのと違う!これだから人生は…みたいなものを、噛み締めたりする余裕も含め…)
考えたりもしています。
もちろん、そんな先のこと、どうなるかわかりませんが。
世代がめぐることへの考察と、
こういう単純で複雑な感情を得られるのも、
こういう日々のおかげであると、
人生に、ささやかに、感謝します。