「元カレは 揺れてる時に やって来る」


格言レベルだね、これはね。


大抵…
揺れてる時に限って連絡がほろりと入ったりして
これってもしかして的な
懐かしさに頼りたくなるような
若かりし頃(幾つやねん)の透明感が思い出されるような
多かれ少なかれ
浅かれ深かれ
きっとたくさんの人にあるある体験なのではないでしょうか。


まるで小説や映画のように。


ふたてに別れたその道の
あの場所に戻ったなら
一体何があっただろうかという
妄想への一本道。


神様が与える試練としか思えないような
突然の知らせが
温かいような 冷たいような
複雑な気持ちを運んできて
やり場のない疑いが立ちこめる、
そんな一本道。


人生ってドラマだなんて
頭のどこかで冷静だったりも、するのですが。


そんな矢先。


昨日『カンブリア宮殿』で
前職の企業が取り上げられていたそうで
今日職場で、何人かの人に声をかけられました。


「あんなところから来たら、今すごく物足りないんじゃない?」


本人は番組を見ていないので
あんなところのあんな、が何を指しているのか微妙に不明ですが
洒落になんないなぁって思いながら
笑顔で「そうですねぇ」なんて
yesでもnoでもない答えを返しつつ
揺れてるときに押し寄せてくるのは
元カレだけじゃなく 元職場もだったりするのか!

妙に感心。


でもやっぱり


人生にIFはないのではないかと
思ってみる。


その時、離れたり、別れたりした理由にも
その時の、ふたり(や、ひとりと一社?!)の気持ちにも
尊厳をもって接したいと思うとき



走り出したい衝動に駆られない以上は
究極的には
わたしは過去に駆られていないと思いたい。



もっとずっとぴよっこだった頃、
一人ヨーロッパを旅している最中に
夜行列車で一緒だったもっとずっとお姉さんな女性と
恋愛談義になって、
そんなときにふと言われたことを
どこかで信じながら
甘える気持ちを放っておくことにしている。


運命だったら
必ずどこかでまた、巡り会うものだから。


そうかなどうかななんて
感じる余裕があるときには
特に
物理的な余裕=ふたりの間の距離、
があるときには
やっぱりそれはまだ現在に粘るときで
過去は過去のまま そこに居て欲しいものであり
居るべきものであり
だから、居る。


宝箱の中に
眠っているように。


だから、
例えば
これとあれとを比べてどうというのがあったとしても
それはそれで
比較した結果という
事象でしかなく
心がその方向に動いているわけでも
善し悪しを判断しているわけでも、ない。


揺れてる時に訪れる
ふとした知らせや
noise(悪魔的な、或いは、救いのような)は
きっと壮大な人生ドラマの
ひとつの試練だったりもして


過去を明日へ塗り替えながら生きていかなきゃならない
前を向いて
顔を上げて
歳を取って(老いて)
時間に追われて
歩いて行かなくちゃならないわたしたちの
最も大変な試練だったりして


試練が来たよ

っていう警鐘を聞き流しながら
揺れる思いは
とりあえず
転がしておくのが
「人生上級者」を目指す上での
最善の策だったり
するのかしら。


「割り切れない思いを
 転がしておくことが
 案外人生の
 コレ最大の旨味かもしれないよね」


なんて


これもまたS的な(M的というの?自己完結の場合、どっちがどっちなの!)
発想で
現在を愛しもうと
している。
悩んでいます。


今のお仕事についてえっ


新しい組織に加入すること早3ヵ月目。


ぶっちゃけ
冷静と情熱の間ならぬ
理想と現実の間(ごく普通)


っていうかどんな理想を描いていたのかすら危うい精神的危機に陥り
体調崩したりしつつ(これは例年の五月病か)
誇りをどこかに隠して下積む感じのやるせなさはさておき
政治とか公とかいう身動きのとれなさ加減と
それゆえにロジックが通用しないある種のノールール
だからこそ許される逆説的なエゴや感覚的な何か。


その気持ち悪さ。


いや
この地上のどこにいても
わたしたちは箱庭の生き物(「なべまさ」的発想)。


そのくらいの限界は分かっているはずなのです。
限界の中の自由や正義や「マーケティング」の裁量を探しあぐねて。


コップの水的な状態で
脳みその中にいつも水を運んでいる的な


つまり
水が半分もあると思うのか 半分しかないと思うのか

今の状態をどちらと判断して向き合うのか

ジャッジしかねている。



これからの数ヶ月数年
わたしは
わたしと世界のためにどんな実験をすべきか。



とりあえず3ヵ月は様子を見ようと思いながら
くだらない後ろ指に辟易しつつ
あと3週間で最初の3ヵ月が終わります。


さんさん 
さんざん


さぁ さぁ どうしよう?


緩んだネジを締め直して、
どの方向に鼻を向けて、立ちましょう。

とまった思考回路を
どのように、動かしましょう。
聞く耳を持つも
持たないも

心の問題であり

言葉なんていうものは、
心の状態を通り抜けて初めて
核心を持つ、
本当はカタチの無いもの。

なんでそんなものに
わたしたちは惑わされる?

いやつまり

わたしたちは何にも惑わされているのでない、
自分自身以外の、何にも。


自分の敵も味方も
自分の愛も憎しみも
自分の夢も絶望も


自分が惑わすんだなぁと
思いながら
それでも
惑わされて 

眠れない夜もあるのだ。


生きていると
そんなこと ばっかりだよね きっと。

死をもって
そんなことを知るのかもしれない。


というようなことを
先週末からずっと
考えている。


この不安定な気持ちの淵を覗き込んで。


それもこれも
劇団☆新感線の『港町純情オセロ』を観に行ったからなのでありますが。
(さすがに、役者さん、皆さん最高でした…ラブラブ!

シェイクスピアのOTHELLOを、
戦前の日本・関西のヤクザの世界を舞台に物語っているという
とっても面白い設定で、
大笑いしながら
涙を流して
人間の気持ちの淵を覗き込んだ。


シェイクスピアの昔から
変わっちゃいない人間の悲しい性。


聞く耳も聞かない耳も
気持ちのそれ一つ。


恋愛においては、それは顕著に

疑いや嫉妬や
誠実や貞操や

真実や

といったものに表れる。

例えば
子どもの頃に聞いていた、まっきーの『NG』の歌詞が
ぐっと思い出されて。



「二人で暮らした日々よりも
 誰かの噂を信じた
 僕になぜうつむいたままで
 言い返せなかったの」


でもきっと
恋愛だけじゃなくって
そういうことなんだって
思いながら
思い悩み
思い悩んだ途端に 見える世界が変わって来てしまう
ことの
恐ろしさと
逆説的な可能性に気付くのです。


古典と言うのは
そういう意味でやはり
学ぶべきものなのかもしれない。