何ともストレートなタイトルをつけてしまった…

しかし、それ以上でも以下でもないので、仕方ない。


この間、ヘンテコな映画を見た。

ヘンテコ、と言うと、監督には失礼なのかもしれない。

しかし、ヘンテコというのは、
いびつ
はまらない
という意味において
わたしにとっては褒め言葉だと思われるので、
とりあえず使うことにします。


ヘンテコなポイントはいくつかあるのだけれど
それは、
イスラエル/パレスチナの「日常生活」が舞台である、
という
日本に住むわたし(たち)にとって、
非常にレアな情報に、物が語られていくことに起因している。


正直、知らないこと、多いじゃないですか?
イスラエル
パレスチナ
その境目付近
に住む、
ユダヤ人やアラブ人や日常生活というもの。

空爆も対空砲もテロも抜きにした、イスラエルやパレスチナの日常が
明るみに出すのは、
わたしたち人間という生き物の、
ヘンテコな欲望でありヘンテコな愛情でありヘンテコな繋がり、営み。

政治的な混乱の裏で
彼らはただひたすらに稼ぎ、暮らし、物質に依存し、愛情とともあり、
気付かなかったり 気付いたりして
過ごしてく日々が
そこにもかしこにもあって
地球上のどこにいても
それぞれのコンテクストの中で
可笑しいくらいにわたしたちは不格好に、五月蝿く、生きていることを
見せつけられる。

ヘンテコ。

あまりに「普通に」ヘンテコなので、
途中で眠くなったりしましたが(おい)
冷静と情熱の間ならぬ
戦争と平和とニュースと固定観念の間にある
人間と人間の日常を見つめる眼差しを見つめに、
出掛けてはいかがでしょう?


全然重たくもなければ 軽くもありません。
つまり「普通」にヘンテコなので。


とりあえず
わたしは
そのヘンテコなエンディングに
爆笑してました。


映画の名は『ピンク・スバル』。

スバルは、あのスバル。
自動車のスバル。
かの地で、もっとも乗られ、憧れられている自動車メーカーが、
スバル、
というのもまた、新たな知識であり。

雑誌Switchの5月号で見つけたこの作品。
(ちなみに、この号のSwitchの特集自体も、よいですよ。とても。
 震災の日、各界の著名人の方々がどこで何をして、何を感じていたか…
 といった
 あのとき、孤独だったわたしたちが知りたかった「人間の生きる感じ」
 を何となく示し 静かな確認と決意をもたらしてくれるという意味で。) 


東京の方は、どうぞ渋谷UPLINK Xにお出かけを!
子ども騙し

とは。

「子どもをすかしだますこと」
「子どもをだますような見えすいたつくりごと」

のことを言うそうで、
つまり前提には、
子どもは騙しやすい存在であり
大人には見えすいたつくりごとでも、子どもは騙せる、
という
大人の傲慢さが表れる言葉である。


でも、現実にはどうだろう?


子どもは、騙せない。

…んじゃないか。

ということを、
最近、とりわけ思う。

先日、縁があって、
福島から東京へ避難して来ている子どもたちと遊ぶ、
という企画に参加して、
こういうセンシティブな時期にも、
逞しく生きている子どもの、
その澄んだ瞳と冷静な空気感(例え表面上、賑やかであったとしても)とに
向き合った時、
彼ら彼女らは
すべてを知っているのだと
すべてを知ろうとしているのだと
心と心がぶつかって、
わたしは深くお辞儀をしたい気持ちになった。


「はじめまして よろしくお願いします」


礼儀正しい、姿勢で。


「自分の子ども」はさておき(「自分の親」や「自分の兄弟」に、
”人間として”フラットに接することが難しいのと似ていると想像するので)
人間として 他人としての子どもは
その真実に対する真剣で真摯な姿勢の究極度において
誰よりも、蔑ろにできない存在なのではないか。

大人の方がむしろ
真実が真実でないことを
真実が真実として語られないことを
お互いに疑いとして持っている前提で向き合うことが多いため
それをポジティブにもネガティブにも、欺く、
そういうコミュニケーションができるのだと思う。

だから

子ども騙しというのはきっと違っていて
それは
子どもの眼差しから目を反らした大人の白旗。

白旗の、言い訳。

子ども騙しの言論で、
実は子どもは騙されていない、ということに
気付いてか 気付いていないか 
とにかく
自分の姿勢に蓋をした、言い訳なのではないだろうか。


全然異なる次元で
ふと思い出した、営業時代の経験で、
「子どもが聞いて分かるように説明できないのならば、
そのプレゼンテーション(企画)は成功しないし、成功とはいえない。」
というのがあって
それは、
「子ども”でも”分かりやすいシンプリシティをもって」
「子ども”でも”分かりやすい簡単な言葉づかいで」
という単純な意味だと、随分解釈していたけれど、
これは、そういう単純なことではないのかもしれない。


「子どもに分かること」は
真実を真実として伝えようとしている姿勢と
その姿勢から発せられる自然な言葉。


表面のことでなく、もっと根っこの問題。


子どもの眼差しから目を反らさないで
突き詰めた考えを 突き詰めた思いを
語るように
語れているのかどうかということ。


それが、企画のプレゼンテーションであれ、何であれ。


そう思うと
最近の仕事の現場においては
非常に分かりにくい、
曖昧な言葉が溢れているなぁと、ちょっとした目眩を感じざるを得ない。


多分に
誰の目を見て語っているのか、分からないコミュニケーション。


地震関連の発表や報道も そういうところがありますよね?


「子どもが聞いて分かるように」


その基準を、自分の仕事の進め方や生き方において感じることの大切さを
今回は学ばせてもらったのだと、思います。

ボランティアと言いながら それは慈善行為なんていうものではなく、
自分自身の学びの場であり
結局は、自分の行為は 自分に還って来る、
それだけのこと
というのも、学びであり。

$Rollingcatの越境レポート。

カレンダー通りのお休みで
週末は、ぷらりと小旅行に出掛けておりました。


お供に、My Kindleを携えて。


この、Kindle。


手元に来てから、およそ2ヵ月ほど放置していました。


引越しのバタバタで、開梱しきれていないときに、
あの地震が起きて、
一気に思考停止状態に陥って、
そして
電力の危機。


まずは
命をつなぐこと
・・・日々、食べることや、安心して眠ることや、
いくつものルートを想像しながら街を出歩くことや、
そういうことで思考がいっぱいで
何かを読んだり 学んだりする余裕がなかったというのがあるけれど

つぎに
電子書籍という
極めて現代的で
そして
電力がなければ何にもならない
書籍と言いながら
たった一文字も表示できないその文明の産物に対して
若干の嫌悪感を持ってしまっていたのです。


Kindle自体に何の罪もないけれど
こういうモノ自体、
この恨めしい原子力発電に頼って存在しているのだという事実への
後ろめたさ。


そうして案外、
「現代的」であることに、
実は、お腹いっぱいで
もう、いらないと、
気付いてしまったのではないかという
疑いもあったりして、
箱に入ったまま、それは放置され続けたのでした。


だけれども
それから2ヵ月近くなろうとしている今、
わたしはぷらりと旅に出るにあたり、
やはり書物をその友にしたいと思い、
ばたばたの日常で書店に立ち寄れずにいたところを、
部屋の片隅のKindleに、
思いを寄せることとなる。


そろそろ
Kindleを充電させるくらいの電力を
わたしは使ってもいいだろうか。


という気持ちも、あって。


結果的に
部屋に居ながら、もののワンクリックにて、
Amazonから読みたい本を購入でき、
海を越え、山を越え、
即座にそれは、わたしのKindleに収まって、
予想を越える見やすい画面と 軽さとで以て、
快適な読書生活をサポートするものであることが、
身をもって、経験されたわけで。


何よりも便利だと感じるのは、
日本に居ながらにして、豊富な洋書にも安価でアクセスできること。


毎日の中に、
世界の広がりを 可能性を感じることができること。


そうして、
生きるか死ぬかの状態と
未来へ繋がる事象との
このコントラストに戸惑う。


止まったように思えて
ある部分においては逆走も辞さないと思う感覚と
一方で
止まらない世界がそこには存在していて
止まらないどころが
猛スピードで進んでいる。


一旦始まった電子化が
電力の危機だからといって
ペーパー化に戻るとも考えにくい。


原子力がエコかエコでないのかという議論にも近いところもあるのかもしれない。


そして、いずれにしても。
電子化にしてもペーパー化にしても
物理的にも支えきれないくらいの情報を
わたしたちの社会は消費する構造になっていて
システムをどのように変えたところで
情報量が少なくなるとは到底思えない。


・・・考えること 感じること 伝えること 
そういったことに慣れてしまった人間の体験を
封じ込めることはできない。


そんな状況は理解していても、
科学者でもないから
何が最も効率的か
何が最もエコなのか
何が最も人間的なのかは
計算もできなければ想像もつかない。

もっとも
専門家だって
言っていることは
専門家によって異なっていて
つまり
ファイナルアンサーというか
唯一絶対のファクトが
そこにはないというか。


このごろの原子力発電の話を中心としたエネルギー政策の話を聞いていても
つまり
結局は
自分が何を信じたいかという
究極的にはそれだけの話になっている
或いは
一般市民の範疇においては
そうなってしまっているのだと思う。


何を信じたいか?


電子書籍なんて
電力がなければ何にもならないモノである。

と、
ここで一切の使用を止めるのも選択肢。


一方で
実用的にも長期的にもペーパーレスの電子書籍がよいとして
使い続けるのも選択肢。


そして
自分が選択肢の狭間で迷うときにだって
技術は休むことなくそこにあり、進化し、
流れは止まらない。


iPad2だって発売なわけで
「現代的な革新」の流れは、止まらない。


それに 乗るか反るか。


わたしの感覚では
地震を境に、
そういったいちいちの選択において、
「横並び的選択」というものが
薄れて行くのかもしれない、と思うようになった。


もちろん、
「多様性」
を重視したい気持ちというのは
グローバルな資本主義がますます席巻していく中で
逆風として社会には存在していて、
それが
ロハスだのなんだのという考え方に通じる部分はあったのだと思うけれど
実際、
浮ついた部分がなかったわけではなかったろうし
お腹の底から わたしはこうやって生きているって
叫ぶことというのは
あまりなかったのではないかと思う。

多様性は呪文と化し、しかし叶えられることのなかった生き方。
それが必然的に求められる社会になっていくのであれば
これがこの試練から得られる副産物、教訓、学びとも言えるかもしれない。


あなたは 自分は 何を思って その行動をとっているのかということを
世の中との連関

それは、エネルギーリソースであったり、
資源であったり、知らない誰かのマンパワー・・・

との連関をもって、感じられるようになって、
目の前の、自分の選択のポリシーが試される、という意味において。


大きな連関の中にあって
わたしは今電車に乗って
Kindleで小説を読んでいます。


という渦の構図に
飲み込まれて
まだ
切ない気持ちは拭えず
猜疑心も持ちながら
わたしは今、このツールを試してみることを行っています。