聞く耳を持つも
持たないも

心の問題であり

言葉なんていうものは、
心の状態を通り抜けて初めて
核心を持つ、
本当はカタチの無いもの。

なんでそんなものに
わたしたちは惑わされる?

いやつまり

わたしたちは何にも惑わされているのでない、
自分自身以外の、何にも。


自分の敵も味方も
自分の愛も憎しみも
自分の夢も絶望も


自分が惑わすんだなぁと
思いながら
それでも
惑わされて 

眠れない夜もあるのだ。


生きていると
そんなこと ばっかりだよね きっと。

死をもって
そんなことを知るのかもしれない。


というようなことを
先週末からずっと
考えている。


この不安定な気持ちの淵を覗き込んで。


それもこれも
劇団☆新感線の『港町純情オセロ』を観に行ったからなのでありますが。
(さすがに、役者さん、皆さん最高でした…ラブラブ!

シェイクスピアのOTHELLOを、
戦前の日本・関西のヤクザの世界を舞台に物語っているという
とっても面白い設定で、
大笑いしながら
涙を流して
人間の気持ちの淵を覗き込んだ。


シェイクスピアの昔から
変わっちゃいない人間の悲しい性。


聞く耳も聞かない耳も
気持ちのそれ一つ。


恋愛においては、それは顕著に

疑いや嫉妬や
誠実や貞操や

真実や

といったものに表れる。

例えば
子どもの頃に聞いていた、まっきーの『NG』の歌詞が
ぐっと思い出されて。



「二人で暮らした日々よりも
 誰かの噂を信じた
 僕になぜうつむいたままで
 言い返せなかったの」


でもきっと
恋愛だけじゃなくって
そういうことなんだって
思いながら
思い悩み
思い悩んだ途端に 見える世界が変わって来てしまう
ことの
恐ろしさと
逆説的な可能性に気付くのです。


古典と言うのは
そういう意味でやはり
学ぶべきものなのかもしれない。