お部屋の拭き掃除をしていて
雑誌類なんかを傍らに置きながら
「真似る」という行為について考えが及んだ。


いつから人は「真似る」ことを当然のことのように行い
真似ることで社会性を身につけていくのだろうか
ということについて。


雑誌なんかはその典型で
モデルさんが着ている服とか身につけている小物類、そしてメイクの方法。

◯◯系とかそういう系譜。

お給料を貰いたての社会人たちが
こぞって買い求める、似たような(或いは、まったく同じ)バッグやお財布や時計。

”かぶって”いて、気まずい、というよりは、
同じ種族として 同じステータスを分かち合うものとして
社会集団的に認め合うような
そういう雰囲気というか習わし。


子どもの頃は、何だかそうじゃなかった気がするのです。


もちろん
大人を真似て、何かを覚える、ということがあっても
例えば仲間内で、誰かを真似る、ということは
むしろ
嫌なことであったような、そんな気がするのです。


しませんか?


だれそれは、いっつも人の真似ばっかりするからキライだ!


なんてことが
嫌われっ子の理由だったり
しませんでしたか?


真似しないでよ!


って
喧嘩したりとか。


しませんでしたか?


真似された!


って
泣いた子を見ませんでした?


例えば、お絵描きの時間の、
書いたものとか、使った色とか、そういったものへの
自分の「オリジナリティ」について
そういう言葉を認識していなかっただろうけれども、
しかし
それぞれに、強い拘りがあったような、そんな記憶。


子どもの頃はきっと
社会性とか集団とか仲間意識とか所属意識とか
そういうことから
本当に本当に自由な時間が
誰にもあったのだろうなと思う。


いつの頃からか
「個性」
を誰かから押しつけのように言われないと
意識できないような状態になっていって
それは
「個性」が大人になる(のに必要な)ことと
相反し始めるからなのかもしれない。


社会の仕組みは
誰かが誰かを真似続けることで
回るように
できている。


この矛盾。


その矛盾の
ナイーブさに、
大人は時々はっと気付いて
夢を見るのかもしれない。


父のことを書き出すと 多分本が一冊くらい書けそうなので
ちょっとしたことを つぶやき程度に。


子どもの頃
お父さんみたいなカッコいい人と結婚できて
お母さんはなんて幸運だろうと思っていた。

自分が大きくなったら 果たして
お父さんみたいなカッコいい人と巡り会えるだろうかと
心底心配していた。



しかし



わたしも大人になり
お父さんみたいなカッコいい人と結婚すると
かなり大変だということに気付き始め
それはおおよそ確信に変わり


つまり


ニヒルな男というのは
恋人にしたり 友だちにしたり 或いは 上司にしたり
というのでは
そりゃあ素敵かもしれないが
夫にした暁には


揺らがない 達観する
喋らない 聞かない 抱え込む
飲む
吸う

寝る


…結構、大変だぁ、こりゃ。


思春期の子どもたちの問題に対してもそうであったように、
一般家庭が経験する様々の困難…
例えば、
自分たち自身やその親たちが年老いて行く中で抱える諸問題においても、
ニヒルである場合、
妻は結構、大変です。


お母さん、よくここまで(ひとりで、とまでは言わないけれど)
やってきたなぁ、やっているなぁ、と、
正直にそう思い、感心する。


しかし だからといって
お父さんを責める気になれないのは
彼が天性にニヒルな男であり
やっぱり カッコいい、というところを譲れないから。


彼の
揺らがない 達観する懐に入り込み
喋らない 聞かない スタンスに寄り添い
抱え込んでいるものを 吐き出せるような


わたしはそんな
飲み友だちであり ゴルフ友だち(弟子だな、正確には)であり
忠実な娘であり
永遠のファンでありたい。


ニヒルな夫が 妻には話せない本音や弱音を
飲み友だちで ゴルフの弟子で 忠実な娘であるわたしに
語ってくれるとき
永遠のファンとしては
ちょっとした優越感を味わって 
同時に
その孤独に、ちょっと切なくなって、
でも
そうやってバランスをとっていくのが
わたしたちの家族の形なんだなぁと
思うこのごろです。


ダディ大好き得意げ


でもやっぱり大変だから
お父さんみたいな人とは、
「絶対」結婚しないけど!!






海外へ行ったときの楽しみのひとつ、
それは、テレビコマーシャルを見ること。。。

言語が分からなくても
その数十秒で何かを伝えようとする性質により、
声のトーンや表情や構図から、
人びとの「盛り上がりポイント」が完結に伝わってくるので
ああこういうので盛り上がるのかなとか
そういう暮らしや文化の文脈が分かる気がして
観察的には超楽しい。


だから
ホテルの部屋にいる間は、基本的にはテレビ点けっ放し。
(日本に居て、自分が普通に番組見てるときは、CMって厄介な存在なんだけど…)


ということで
今回の台湾滞在中も、ぼんやーりとテレビを点けっ放し、
おお、素敵だ!
と見惚れてしまったのが、
Panasonic Vieraのコマーシャルでありました。


わたしには、
「黒のVIERA」の意味が
よくよく伝わって来ましたぞ。

っていうか
日本版では滝川クリステルさんが、
おっとーーーーーーーーーーーーーーーーーりした口調で
「…艶やかな黒 …鮮やかな色 黒が深まると 色は輝き始める」
とか言っていて、
リリース当時のメディアでは、
「滝川クリステルが小学生以来のロングヘアでCMに登場!」
とかナントカいうのが話題になっていて、
へぇ…?

正直ですね、
CM見ても、その黒がどれだけ鮮やかなものなのか、
よく分からなかったし
黒がどれだけ大切なのかもいまいち分からなかったのですけれど。


背景と黒髪の黒
髪飾り(花)の色


それが テレビ的に非現実的(静的)過ぎて(「テレビ」というより「絵画」)
多分 ピンと来なかったのだと思われ。
(おっとーーーーーーりしたナレーションと合わせて…)


台湾で見た、「黒」は、
黒が、テレビ的なアクションの中で目を離せない存在になっていて
画面が移り変わっても それは常に興味のセンターに置かれて
黒って、こんなにコントラストを創ることができて、
同時に、
黒だけでも、こんなに違う、こんなに鮮やかなんだなと感じ、
よって、色、つまりテレビ画面に映り込む全体が、鮮やかになるんだなと、
妙に納得。


ということで、
ただそれに興奮しちゃったエントリー。



日本で「黒のVIERA」を十分刷り込まれたから、
台湾で、それを納得させるCMに出会って、
腹に落ちたというのもあるかもしれないけど。

そうなのであれば、
是非、このバージョンも日本で流せば
ダメ押しになるのでは?


わたしが女子だから、
金城武>滝川クリステル
という色眼鏡で見ているんじゃないのー?
という見解はさておき。


いや、確かに、
最後の困っちゃった的な表情は、反則ですけど…べーっだ!