「甘えの構造』、とかいう本を読んだな、学生のとき。
(1971年弘文堂、土居健郎著)
「甘え」という言葉が、日本語・日本文化独特であるように、
他人に依存して自分を確率する様が、いかにも日本人的である、
というような内容だったような気がしますが。
その頃はふむふむと読んでいたけれど
大学院で勉強していたようなこと、
つまり、
多かれ少なかれ、自分=他者 という考え方ができる限りにおいては、
他人が自分をどう思うか、見なすか、
他人が自分をどう扱うか、付き合うか、
ということに自分の存在は頼らざるを得ないという意味では、
日本文化に限らず
世界中というか 人間が社会的に生きる限りにおいて
どこかしら共通する議論がある気がする。
でもまぁ
他の言語に「甘え」にあたる言葉があるのかどうかわたしはよく知らないので
自分が他人に依拠する存在だとして
それを”人任せ”にしようとするか、しないか、というところの、
積極性があるか、ないか、は、
文化ごとに違うのではないかと思ったりする。
主体性の程度というか。
と 難しく考えてみたところで
日々の悩みはそれとは似ても似つかず
わたしはなんだかこのところひどく頼りなくて
「これだ!」
という具合に、物事を決められない。
わたし、どうしたらいい?
と、
誰かにすがりつきたい気持ちでいる。
何なら、誰かに決めてもらいたい気持ちでいる。
“人任せ”であり、主体性を失いながら、自分を形作っていこうという意味で
これはもう「甘え」以外の何でも無いかもしれない。
それが、日本人的かどうかは、知らないよ。
髪を伸ばすか切るかだって、もはやひとりでは決められず
どっちがいいだろうか!
と差し迫って聞いて回る、週末かな。
自分がどうしたいじゃなくって
みんなどう思ってる?って聞きたい。
何が似合って、何が”わたしらしい”感じなのかってことについて
どうやって構成されているのかってことについて。
来週は、占いに行ってみようと思ってるよ!!!!!!
髪を伸ばすか切るかだって、聞いてみようと思ってるよ!
もうどうしようもなく
自分の姿形も中身もおぼつかないから
誰か、何か、言って!って気分で
誰かに規定されるのが社会だとしたら
それを自覚的に利用するのだとしたら
甘えは逃げ道か?
どこかで跳ね返って来る痛みがありそうな
茨の道
と知ってて入り込む
構造
こんな気分の時代は、結構初めてで衝撃だ。
(1971年弘文堂、土居健郎著)
「甘え」という言葉が、日本語・日本文化独特であるように、
他人に依存して自分を確率する様が、いかにも日本人的である、
というような内容だったような気がしますが。
その頃はふむふむと読んでいたけれど
大学院で勉強していたようなこと、
つまり、
多かれ少なかれ、自分=他者 という考え方ができる限りにおいては、
他人が自分をどう思うか、見なすか、
他人が自分をどう扱うか、付き合うか、
ということに自分の存在は頼らざるを得ないという意味では、
日本文化に限らず
世界中というか 人間が社会的に生きる限りにおいて
どこかしら共通する議論がある気がする。
でもまぁ
他の言語に「甘え」にあたる言葉があるのかどうかわたしはよく知らないので
自分が他人に依拠する存在だとして
それを”人任せ”にしようとするか、しないか、というところの、
積極性があるか、ないか、は、
文化ごとに違うのではないかと思ったりする。
主体性の程度というか。
と 難しく考えてみたところで
日々の悩みはそれとは似ても似つかず
わたしはなんだかこのところひどく頼りなくて
「これだ!」
という具合に、物事を決められない。
わたし、どうしたらいい?
と、
誰かにすがりつきたい気持ちでいる。
何なら、誰かに決めてもらいたい気持ちでいる。
“人任せ”であり、主体性を失いながら、自分を形作っていこうという意味で
これはもう「甘え」以外の何でも無いかもしれない。
それが、日本人的かどうかは、知らないよ。
髪を伸ばすか切るかだって、もはやひとりでは決められず
どっちがいいだろうか!
と差し迫って聞いて回る、週末かな。
自分がどうしたいじゃなくって
みんなどう思ってる?って聞きたい。
何が似合って、何が”わたしらしい”感じなのかってことについて
どうやって構成されているのかってことについて。
来週は、占いに行ってみようと思ってるよ!!!!!!
髪を伸ばすか切るかだって、聞いてみようと思ってるよ!
もうどうしようもなく
自分の姿形も中身もおぼつかないから
誰か、何か、言って!って気分で
誰かに規定されるのが社会だとしたら
それを自覚的に利用するのだとしたら
甘えは逃げ道か?
どこかで跳ね返って来る痛みがありそうな
茨の道
と知ってて入り込む
構造
こんな気分の時代は、結構初めてで衝撃だ。