8月21日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1192年 - 鎌倉を本拠として関東を制圧し、弟達を代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟の源義経を追放した後、諸国に守護(国単位で設置された軍事指揮官・行政官)と地頭(荘園[領主が在地する荘官を通じて農民を支配し、年貢や公事を徴収した私有地]・国衙領[地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏、即ち国司の直接支配下にある土地で、平安時代中期頃以降の公領のこと]を管理支配するために設置した職)を配して力を強め、奥州合戦で陸奥国(後の陸中国で、領域はほぼ現在の岩手県に相当する)平泉を中心に、出羽国(現在の山形県と、北東部を除く秋田県に相当する)を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族、奥州藤原氏を滅ぼし、全国を平定した源頼朝が、征夷大将軍(将軍)に就任する。一般的には、源頼朝の征夷大将軍(将軍)就任によって、鎌倉幕府が成立した、とされる。 
1770年 - イギリスの海軍軍人で海洋探検家のジェームズ・クックが、オーストラリア東部に対するイギリス領有権を正式に主張。オーストラリア最初のイギリス入植地として、ニューサウスウェールズと命名する。 
1772年 - クーデターを起こし、貴族達から権限を奪還したスウェーデン王グスタフ3世が新憲法を制定。北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置するスウェーデンを弱体化させた、いわゆる自由の時代が終結する。 
1810年 - スウェーデン議会が、フランスの軍人ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットをスウェーデン王太子に選出する。 
1831年 - アメリカ合衆国東部、バージニア州サウサンプトン郡で、ナット・ターナー率いる奴隷の反乱が勃発。50名以上の白人が殺害される(ナット・ターナーの反乱)。
1856年 - アメリカ合衆国初代駐日領事(領事は、外国に駐在して、自国民の保護、及び自国の通商の促進に当たる外交官の一種である)タウンゼント・ハリスが、現在の静岡県下田市にある下田港に到着。アメリカ合衆国の外交官で、江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約、日米修好通商条約を締結したことで知られるタウンゼント・ハリスは、下田に領事館を構える。1858年、日米修好通商条約が締結されたことにより、アメリカ合衆国初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して、1859年に江戸の元麻布にある善福寺(現在の東京都港区元麻布に所在する寺院)に公使館を置く。1862年には、病気を理由に辞任の意向を示し、江戸幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て、約5年9ヶ月の滞在を終えて帰国する。辞任の理由に関しては、タウンゼント・ハリスの日記に、かねてからの体調不良があることや、また、自分とは党派が異なる共和党のエイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国大統領で、南北戦争(奴隷制存続を主張するアメリカ合衆国南部諸州の内、11州がアメリカ合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、アメリカ合衆国に留まった北部23州との間で戦争となったもの)の故郷の心配があったこと等も指摘されている。 
1862年 - オーストリアの首都ウィーンにあるウィーン市立公園が開園。ウィーン市立公園は、ウィーン最初の公立公園で、市内で記念碑や彫像が最も多い公園となっている。中でも、黄金に輝くヨハン・シュトラウス2世(「ウィーンのワルツ王」として知られるオーストリアの作曲家)記念碑は、全世界で最も多く撮影されている記念碑の1つとされる。 
1876年 - 第2次府県統合。山形県・宮城県・福島県・群馬県・栃木県・埼玉県・長野県・岐阜県・静岡県・京都府・兵庫県・福岡県・大分県がほぼ現在の形になる。1871年に廃藩置県(明治政府がそれまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革)が実施されるも、全国に飛び地が散在し、互いの境界も錯綜していたことから、約3ヶ月後には、明治政府はそれらを整理し、全国規模での府県の大統合を行なう。これがいわゆる第1次府県統合であるが、再び全国的な府県統合を実施して、府県を整理した政策が、第2次府県統合である。その後も、他県に編入された旧藩の領地での独立運動による分立や、道路建設と水害対策のいずれに予算を優先的に配分するかを巡っての対立による分立等があり、最終的には、1900年までに、全府県で府県制が施行されている。 
1877年 - 現在の東京都台東区にある上野公園で、第1回内国勧業博覧会が開催される。内国勧業博覧会は、日本の明治時代に5回開かれた博覧会で、名称通り、日本国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的とした、政府主導の博覧会である。明治時代には、近代化促進のために数多くの展覧会が開かれたが、内国勧業博覧会は、その中でも代表的な博覧会である。「内国」と付くのは、第1回内国勧業博覧会を主導した、明治維新の元勲である初代内務卿(内務省[現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身]を指揮監督した国務大臣)、大久保利通の意向による。これは、国内物産の開発・奨励を第一義の目的としていたという意味もあるが、外国人の治外法権と内地通商権の不許可という事情にもよる。他に、明治期の日本には、万国博覧会を開催するだけの国力がまだなかったことも大きい。 
1878年 - アメリカ法曹協会が設立される。アメリカ法曹協会は、アメリカ合衆国の弁護士等、法曹(法律を扱う専門職としてその実務に携わる者)の任意加入制全国団体である。必ずしも全ての法曹が加入している訳ではないが、最も著名で、その活動も広範囲で、影響力も大きいことから、アメリカ合衆国全国の法曹の代表機関として位置付けられている。 
1879年 - ヨーロッパ大陸の北西沖の大西洋洋上に位置し、アイリッシュ海を挟んで東に、イギリス本土であるグレートブリテン島に接する島、アイルランドの北西部にある小さな町、クノックで、教会の外壁に神秘的な光を浴びながら、聖母マリアの像が人々の前に現れる。クノックは、20世紀には、ヨーロッパにおける聖母マリアゆかりの地として、多くの巡礼者を集めることになっており、現在でも毎年約150万もの巡礼者がクノックを訪れる。聖母マリアへの強い信心を持っていた第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も、1979年にクノックを公式訪問している。 
1898年 - 共和演説事件。文部大臣(現在の文部科学省の前身の1つで、教育、文化、学術等を担当していた文部省の長)尾崎行雄が、帝国教育会(1896年に組織された全国的な教育者団体で、後に日本教育会と改称し、1948年まで存統する)で行なった演説の一節、「日本に共和政治があると仮定すれば、おそらく三井、三菱は大統領候補者となるだろう」が不敬として問題になる。この発言の趣旨は、当時蔓延していた財閥(家族、又は同族によって出資された親会社[持株会社]が中核となり、それが支配している諸企業[子会社]に多種の産業を経営させている企業集団であって、大規模な子会社は、それぞれの産業部門において寡占的地位を占める、又は、中心的産業の複数部門における寡占企業を傘下に有する、家族を頂点とした多角的事業形態)中心の腐敗した金権政治の風潮を批判したものであったが、大日本帝国憲法下の当時の日本では、「不敬の言」と曲解され、尾崎行雄は後に辞任する。さらに、日本史上初の政党内閣であった第1次大隈重信内閣総辞職の一因ともされている。
1904年 - 甲武鉄道(現在の東日本旅客鉄道[JR東日本]中央本線)の飯田町駅(現在の東京都千代田区飯田橋に所在し、甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設されたが、1933年に機能を新宿駅に譲って旅客営業を廃止し、荷物や貨物の専用駅となり、1999年には駅自体も廃止される) - 中野駅間で、日本の普通鉄道では初めての電車運転を開始する。1890年、現在の東京都台東区にある上野公園で、第2回内国勧業博覧会が開催された際、路面電車2両が公開運転され、その5年後の1895年には、京都市で、路面電車による日本初の電車営業運転が開始される。路面電車が全国で広がると、今度は、それまで蒸気機関車を用いていた路線でも、駅間距離の短い市街地付近等を中心に、電車を導入しようという考えが広まり、蒸気機関車との併用であるが、初めて鉄道路線(路面電車は軌道)で電車の使用が開始される。これは、市街区間において、並行して走る路面電車に乗客を奪われるようになっていたため、対策として考え出されたものであったという。