以前からたまに思っていたこと。
スピリチュアルの世界というのは、加害者や犯罪者を擁護する要素があります。
これは、クリアリングや手放し(最近は統合とも呼ばれます)が推奨されているからだと思います。
なかなか手放せないのは「許せない気持ち」つまり「被害者意識」です。
被害者意識というのは確かに「相手や何かのせいで自分は被害に遭った」という外側軸の在り方になり、責任転嫁して他人や外側に翻弄される生き方になってしまうので、厄介な感情や観念です。
なので、許せない気持ちは自分のためにも手放した方がいいといえます。
その背景もあり、また光と闇の戦いにもなってしまうので、加害者や犯罪者を糾弾するのは推奨されません。
それは正義感を振りかざしていて、エゴ優位なので。
なので、加害者や犯罪者に対しても糾弾したり罰する姿勢でなく、その人たちの自己責任であり、その人たちにとっては学びをしていることを理解する、という中立的な姿勢になります。
なので、人によっては甘いと感じたり、加害者や犯罪者を肯定して擁護しているように感じる人もいるかもしれません。
それ(中立的に見ること)に関しては良いと思います。
ただ、加害者や犯罪者を擁護するわりに、被害者側が報復するなどで加害者側になることには厳しく、否定やジャッジしたがる要素がスピリチュアルの世界にはあるようにも感じてました。
それについては、矛盾を感じるし違和感が個人的にはあります。
加害者や犯罪者は闇や悪の学びをしているので、許されていい
だが被害者側が報復や復讐、やり返したり呪いを飛ばすのはダメなこと、またはするべきではない
こういう理論ということでしょうか。
これって矛盾してないでしょうか?
被害者意識を手放して加害者側を許す方向に向かうのは、個人的には賛同できます。
やはりそれが本人(被害者側)のためにも、最も癒しや救いになるからです。
ただ、被害者側が一時的に抑圧していた闇が浮上して、ついやり返す方向に行ったり、恨みや呪いなどのネガティブな念を飛ばして相手にネガティブな影響を与えたとして。
それについては責められ、許されないんでしょうか?
もちろん、やり返したりネガティブな念を飛ばして妨害するのは宜しくないです。
自分にネガティブな形で返ってくる要素でもありますし(だからするべきでないと言われてるんでしょう)
ただ、被害者側の人も、もしかしたら、一時的に闇や悪を体験してみて、善悪どちらも体験することで深く学ぶ人だっているかもしれません。
その過程で闇が浮上して、ついやり返したり念や呪いを(自覚的無自覚的関わらず)相手に飛ばしてしまうこともあるかもしれません。
たまたま虫の居所が悪かったり魔が差してしまったこともあるかもしれません。
被害者転じて加害者になるという生き方は悲しいですし不幸になるので、そちらに堕ちてはいけないとは強く思います。
ですが、加害者を擁護するのであれば、被害者側の人が許せない感情を制御できず、つい相手にやり返したり呪いを送ることは厳しくジャッジして、やり返すべきではないと諭したがるのは公平ではない気がします。
加害者には甘く擁護し、被害者側にばかり正しさと厳しさを要求するのは、スピリチュアル的には正論だとしても、一種のスピリチュアルハラスメントの匂いも若干感じます。
スピハラスメントは、私も昔スピの学びの場にいた時、何度も受けたことがあります。
もちろん、しない方がいいのは確かですが、正しさを押しつけて否定やジャッジして禁じる姿勢より、同じように中立的に見るのが愛なのではないかと個人的に感じます。