「大人」というのは、「いろいろなことを知っていて、自分ひとりで、何でもできる」もののことではない。「自分がすでに知っていること、すでにできることには価値がなく、真に価値のあるものは外部から、他者から到来する」という「物語」を受け入れるもののことである。言い方を換えれば、「私は※※※ができる」というかたちで自己限定するのが「子ども」で、「私は※※※ができない」というかたちで自己限定するものが「大人なのである」
昨日、新たな仕事の案件で打ち合わせをした。
その中で一番大切なことが、「選手たちが主体的に取り組むチームにしたい」というものだった。
長いこと高校生と大学生に携わってきたが、それはまさに私自身が課題として考えていたことだった。
おそらく日本中のあらゆるスポーツの現場であるのが、選手たちが監督やコーチの顔色をうかがって練習に取り組むというものだ。逆に言えば選手たちを管理していくスタンスで、言い方を変えれば「こいつらは自分ではできないからやらせる」っていう指導法である。
そして、また徹底的に管理されたチームが強いというのも残念ながら事実である。もちろん、そのやり方が全て悪いわけでないし、当時者が納得しているならまったく問題ない。
しかし、私はいわゆる「やらせる」指導はしたくないし、たんに苦手でもある。
難しいのが、大学生にもなってそうやって育ってきた選手は、いざ自分で考えてやってみろと言われても、もはやそういう習慣がなかったので、どうしたらよいかさえわからないのだ。単純に言えば指示待ち人間になってしまっているのだ。
この習慣を変えるにはどうしたら良いか?
まずは指導者が変わる必要がある。要は逆の発想になればいいのだ。「こいつらは自分ではできないからやらせる」のではなく、選手を信じて選手に任せればよいのだ。まあ、でもこの選手を信じるっていうのが難しいのだが。
選手を信じて任せるというものを、私は自分が選手側だった時に経験させてもらった。
それは高校の野球部の時だ。2年生になった私はもう1人の同期と共に1年生の指導者係に任命された。私が所属していチームは都立としては強豪だったこともあり部員は100名を超えていた。
1年生は夏季大会が終わるまでは指導者係の元で上級生とは全く別に練習するのだ。しかも、監督やコーチから1年生に何をどう教えてほしいという要望もなければ、完全に我々2人に全てを任せたのだ。つまり、我々2人は指導者係としてのマニュアルが一切ない状況で3ヶ月もの間、1年生の面倒をみることになるのだ。自分も指導者になり高校生や大学生に接しているが、全てを選手に丸投げした事はない。高校生どころか大学生相手にもそれはやれた事がない。
ところが、たかだか一つだけ学年が上の同じ高校生に、一切の導きもなく1年生の指導を任せたのだ。もうどう考えても信じられないのだが、当時の監督やコーチは我々のやっていることに口出しはしなかった。おかげで、我々は自分たちで考えるしかなかった。唯一の拠り所は、前年の指導者係が我々にしてくれた事だ。とは言え、練習メニューを控えていたわけではない。大袈裟に言えば、全くの白紙の状態である。でも、だから考えるしかなかった。無い頭を使って日々考えるしかなかった。いや、考えている暇もないほど毎日は過ぎ去ったかもしれない。
しかし、そのおかげで、私は自分で考える、考えた事を人に伝えるという、生きていく上でむちゃくちゃ大切な事を訓練する事ができた。
あの時の指導者係の経験が無ければ、私はトレーニングコーチをやっていなかったとさえ思える。
選手たち自身が主体的に練習に取り組むためには、選手を信じること。それが一番大切なように思う。