与謝蕪村の数詞 最終回-2

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与謝蕪村 数詞 最終回-2

末尾に参考文献を感謝と共に掲載します。

 

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉  

緊迫感溢れる一場面で、風雨も強くなってきている。

馬が跳ね上げる泥さえ見えるようだ。

後白河天皇は鳥羽殿から東三条院に移っているので、鳥羽法皇は鳥羽殿で崩御されたのだろう。見舞いに来た崇徳上皇を拒否したことで保元の乱が始まった。やがて平治の乱へと 世は動乱の時代を迎える。

 

五六升芋煮る坊の月見かな      

これから寺には月見客が大勢やって来る。その接待に芋をぐつぐつと煮ている。団子を作る余裕の無い貧しい寺と分かるし、その一生懸命な湯気まで見える句だ。

庵の月主をとへば芋掘りに

芋掘りは芋頭を好んだ盛親僧都(徒然草)の俤

 

(うすづく)や老木の柿を五六升          

舂くは渋を抜く作業。 

(うすづく)や穂麦が中の水車 

前書 大魯、几薫などゝ布引滝見にまかりてかへさ、途中吟 とある。

安永6年4月13日几薫と大坂に下り、同19日に帰京している。布引滝は今の神戸の布引山にかかる。

この(うすづく)は渋抜きではなく、もう一つの意味である夕日の山に入ろうとするだろう。

菜の花や月は東に日は西に の感じ。

二句とも安永6年の作であり、もしかしたら、蕪村の遊びかも。

 

上掲句と同じくらい好きな句を次に

四五人に月落ちかゝるをどり哉            

大勢いた村人も少しずつ減り遂に四五人となってしまったが、真夜中を過ぎて月も傾き始めた頃になっても、盆踊りは愈々佳境に入るのだな。

歌い手と太鼓叩きと三味線弾きとに加えて幾人かの踊り手が陶然として。みんなハイになっちゃって幻想的。

前書に「英一蝶が画に賛望まれて」とある。実体験ではなさそうだ。

住吉の松の隙より眺むれば、月落ちかゝる山城も云々 謡曲富士太鼓

住吉の木間より見渡せば月落ちかゝる淡路島山 源頼政

 

盆踊りの起源は歌垣の自由さにあるだろうが、鎌倉時代の一遍上人踊り念仏は全国に広まり、念仏と踊りによる救済にトランス状態となり、衣服もはだけよと踊り狂い、法悦境へと庶民を巻き込んで大ブームとなった。

その後、江戸時代には 村単位の行事となり 主に音頭をバックに踊った。

映画灯台守の恋では、フランスの寒村の灯台守の女房とアルジェリア戦争の傷痍軍人である若者との一夜限り出来事が 村の盆踊り(カーニヴァル)の暗がりで成就する。

 

最後に蕪村の自画像と思われる句

 

 

歯あらはに筆の氷を噛む夜哉

歯は何本か抜けてしまったが、残った歯で凍り付いた筆先を噛み解している底冷えの夜よ。

 

 

また(十で紹介した)蕪村22歳初出(しょしゅつ)の句、これ以前の句は見当たらず

尼寺や十夜に届く鬢葛

十夜念仏に入る当日に、この尼寺で髪をおろしたばかりの尼へと 因縁の男から鬢葛が届いた。

鎌倉の駆け込み寺は臨済宗東慶寺なので、浄土宗行事の十夜念仏は行わない。

蕪村は浄土宗で、増上寺の裏門に住んだこともある。

 

蕪村の出家はよくは分からないけれど、一説に例の安永6年1777新花摘(しんはなつみ)は亡母の五十回忌追善を意図して作られたとあるが、真偽は不明である。

仮にこの説が正しいとすると、この時蕪村62歳なので13歳で母と死別となり、この後寺に出された可能性はある。

 

宝暦10年1760に45歳で還俗して結婚もしているようなので、30年間ほど僧籍にあったかも。蕪村が宋阿に入門したのは元文2年1737、22歳の時なので、十代後半の数年間は寺住の孤独な暮らしだった。

初代夜半亭である師宋阿(巴人)の追善集西の奧に寄せた蕪村の追悼句からそれが分かる。

我が泪古くはあれど泉かな

この前書に『宋阿の翁、このとし頃予が孤独なるを拾ひたすけて云々』とある。苦しく悩み多き若者は ある時宋阿に俳句を送って添削や指導を受けたのであろう。

 

ちなみに、山頭火の母は彼の9歳の時に 井戸へ身を投げて自死された。

 

では参考文献五冊

 

蕪村 放浪する「文人」 佐々木丞平他 とんぼの本 

図版も多く蕪村を知るには便利

 

与謝蕪村 田中善信 人物叢書 吉川弘文館

蕪村の人生を活字で追うことができる

 

名句名訳 蕪村 石田郷子 ぴあ

蕪村の俳句鑑賞の手始めにぴったり

 

蕪村俳句集 尾形仂校注 岩波文庫

句集と遺稿集とに分けて春夏秋冬に分類されている

 

蕪村句集 玉城司訳注 角川ソフィア文庫

語訳、解釈など句の背景も記されている

 

長々お付き合いくださり ありがとうございました。