うろ覚えで語るキリスト教① | ロードバイクとオートバイ

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皆さんおつかれさまですm(_ _)m

なんか、2月の第二週、雪が降ったり、仕事もバタバタしたりで、疲れちゃって(´・ω・`)平日練習をする気力が出ません。

 

そんで、思いついたようにですけど、私もクリスティーヌの端くれですので、キリスト教について少し語っていきたいと思います。

 

25〜6歳のときに読んでいた入門書(図書館にあって何回も借りてきてたものを後に神保町の古本屋で見つけて入手し大切にしてた)も、色んな書籍の内容をまとめた自作ノートも紛失してしまいましたので、かなりうろ覚えですがwww(´・∀・`)よって万が一私の駄文を読んでエロい偉い人がクレームつけてきても受け付けませんよヽ(*´∀`)

 

キリスト教の概要

 

安彦良和「イエス」 NHK出版より

 

キリスト教とは、神の子であり救い主であるイエスを信じて救われましょうという宗教です。物証はないです。聖書と言われる文書群にそう書いてあるだけです。

聖書は神の言葉と言われますけど、人間の言葉です。ヨハネ福音書に書いてある通り、神の言葉(ロゴス)はイエス・キリストだけです。なので、人間が書いた信仰告白の文書群が聖書だと私は思っています。新約聖書に関して言えばその中に宣教的文言が散りばめられています。

 

旧約と新約

 

旧約とは、モーセがシナイ山で神と結んだ契約で、新約とは、イエスがその信者と結んだ新たな契約のことです。おや?(´・ω・`)神との契約だったら旧約の方がありがたいのかな?ご心配なく、キリスト教ではイエス・キリストも神なので契約更新しても問題ないんです。

 

三位一体

 

では、聖書の神は二人いるのかと言えばそれは違います。父なる神(モーセに「私はあるという者である」と名乗られる方)、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神の三位一体、三つの位格を持ちながら一人である神さまがキリスト教の神さまです。正直言って人間には理解できません。

 

三位一体の簡略化図。ネットからです。

 

パウロの教義

 

新約聖書では、一番古い文書はパウロの書簡と言われる文書群です。西暦50年頃〜。律法主義のパリサイ人だったサウロは、キリスト教徒たちを迫害する側の人だったのですが、ある日、イエス・キリストがサウロに現れて「なんで我を迫害するのか?」と言われ目が塞がれてしまいます。三日たって、「あれ、イエスは我々ヘブライ人、ユダヤ人が待ち望んでいたメシアじゃないのか!」と気づいて目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになります。そしてパウロと改名。イエスの直弟子ではないのに、キリスト教の教義体系を作り上げて行ったのでした。パウロは、ローマの市民権を持つインテリアだったからできたことですね。

パウロの教義は、律法主義からの脱却です。パウロ自身が律法主義者でしたので、律法では救われないことが身に沁みてわかっていたのでしょう。律法というのは十戒を元にして作られた細かい掟で、これを守ることによってヘブライ人は神との正しい関係を維持しようとしていたのですが、律法を完璧に守ることは人間には不可能なので、ある程度のところで妥協するか、守れないことに絶望するかのどちらかになっていたのです。律法は決して無駄ではない。しかしイエスが来て十字架にかかったことで律法は成就され、イエスを信じる信仰によって救われるようになったとパウロは説きます。イエスが来たあとも律法によって救われようとする人は律法を完璧に行わなければならないし、それは神の恵みを無駄にすることだと。

 

パウロとイエスの直弟子たちとの対立

 

ペテロやヤコブなどのイエスの直弟子やユダヤ人キリスト教徒たちは、主にユダヤ人世界で伝道していました。そして、イエスの十字架後も相変わらず律法を守って過ごしていました。だから、イエスの教えを信じ伝えながらも、ユダヤ人世界でキリスト教徒たちは生きていけたのだと思います。

対して、当時の公用語だったギリシア語ペラペラのパウロはイエスの教えを異邦人世界に伝道していきます。イエスの時代からユダヤ人は各地に散らばって暮らしていて、各地にシナゴーグ(会堂)があってそこで伝道していたわけですが、あるとき、アンティオキア(トルコのシリア国境のあたり)の教会にいたパウロの元に初代ローマ教皇と言われるペテロがやってきます。最初は異邦人キリスト教徒と一緒に食事していたペテロですが、他のユダヤ人キリスト教徒がアンティオキア教会にやってくると、彼らの目を気にして,異邦人たちと一緒に食事をしなくなりました。律法では血抜きしていない肉を食べてはならないし、異邦人と一緒の食事をとることは避けられていたからです。

 

メロスは激怒した(・Д・)いや、パウロは激怒しました。「このケパ(ペテロの別名で「岩」という意味)カスふざけんなっ!」と言ったかどうかはわかりませんが、いつまでも律法にこだわる態度が許せなかったのでしょう。その後、パウロは、イエスの直弟子たちと話をつけるためにエルサレムに乗り込みます。そして開かれたエルサレム使徒会議(49年頃)。インテリ使徒パウロの言説にイエスの直弟子たちはタジタジ。異邦人に律法を守らせるべきではないとの合意を得て、パウロは意気揚々と帰っていきました。

ですが、あくまでも主にユダヤ人たちに伝道していたイエスの直弟子たちは悩みます。なのでこっそりと「あー、まー、しかしながら、昔から守られてたことですし、ユダヤ人の皆さんが忌み嫌ってることなので、異邦人の皆さんも、偶像に祭られた食べ物と、しめ殺した動物の肉と、血抜きしてない肉と、淫行は避けてくださいね(((o(*゚▽゚*)o)))♡」という使徒教令を出します。新約聖書の半分を書いたパウロはこの教令について一言も触れていません。でも、3つは食べ物に関することで最後に「淫行」ってさあ( ̄▽ ̄;)

 

イエスの言行を記した福音書

 

それから、イエスの言行の口伝をメモしたものが集まりだして、西暦70年ごろからマルコ、マタイ、ルカの3福音書が成立していきます。一番最初に成立したマルコ福音書では、イエスが十字架につけられて、墓に葬られて、3日後にマグダラのマリアが遺体に香料を塗ろうと墓を訪れるのですが、イエスの遺体はなく、天使とも思える若い男がいて「復活したからここにはいないよ」と告げます。マリアはびっくりして逃げ出して、このことは恐ろしくて誰にも言えなかったというところまでがオリジナルらしいです。マタイ、ルカ福音書は、マルコに別の資料を追加して完成したようです。

 

新約教義を仕上げたヨハネ

 

パウロ書簡、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)ときて、西暦100年頃、ヨハネ福音書を書いた人がキリスト教の教義を完成させていきます。イエスが神の言葉であるとし、言葉は神と共にあったが、人々を直接救うために地上に降臨したとしたのもこの人です。このヨハネは、イエスの十二弟子のヨハネという人もいますけど、なんなら、ヨハネ黙示録を書いた人も同一人物視する人もいますけど、使徒ヨハネ、ヨハネ福音書のヨハネ、黙示録のヨハネは全て別人によるものだと私は思います。

ヨハネ黙示録は、ローマ帝政によって迫害されたキリスト教徒が、暗喩によってローマ帝政を批判したもので、いずれイエス・キリストが再臨してローマから救ってくれるから頑張ろうぜ的な励ましの文書です。旧約聖書で言えばダニエル書も、シリアからの弾圧に対してユダヤ人たちを励ますために書かれたものです。なので、「666」や「獣」はローマ帝政のことを暗に指しているし、「ハルマゲドン」はメギドの丘ってだけのことです。未来の予言なんて書かれてません。

 

十字架の意味

 

キリスト教と言えば十字架ですね。なんで十字架がキリスト教の象徴となっているかと言いますと、イエスが十字架につけられて死んだことが人々の罪を贖ったとされているからです。

 

キリスト教では、すべての人間が罪人で、いずれ法廷に連れてこられます。検察官である神から「死刑」を求刑されます。ひでーな、申し開きの機会(罪状認否)もねえのかよ〜とお嘆きの皆さん、安心してください。すべての人に弁護人がついてます。

弁護人イエス「意義あり。その人の罪の報いは私が代わりに十字架上で死んで受けていますので、無罪です」

裁判官である神は無罪判決を出しましたとさ。

裁判官=神、検察官=神、弁護人=神という完璧な裁判。クレームのつけようがありません。

 

なんでそんなことになるんだろう?罪っても、俺パクられたこともないぜ?と思う人も多いでしょうが、人間の刑事上の罪とか道徳的な罪とかではなく、罪とは神と正しい関係にないこと、すなわち「不義」であることを言います。旧約聖書の時代では、十戒からはじまる律法を守ることで神との正しい関係「義」を得ようとしていましたが、パウロ曰く、「律法で義と認められた人は誰もいません」でした。律法ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められることがキリスト教です。

 

教会では月に一度聖餐式をまもるのですが、十字架に付けられる前、イエスは弟子たちと契約を結びます。

(パンを)とって食べなさい。これは私の体です。この杯から(ブドウ酒を)飲みなさい。これは罪が許されるように多くの人のために流される私の血、契約の血です。

世に有名な「最後の晩餐」のシーンですね。罪の報いは死であると言われていましたので、人間は皆んな死ぬことになってますが、イエスの十字架上での死をもって、全ての人間の罪をチャラにしてくれたと信じることがキリスト教の信仰です。イエスを神と信ずれば十字架上の贖いも信じることができるのです。

 

私はあるという方

 

聖書の神の名は、ヤハウェとかエホバとか言われてますが、実際のところどう呼ばれていたかはわかっていません。ヘブライ語は子音しか残ってなく、アルファベットで書けばYHWHとなります。十戒の2番目「主の名をみだりに唱えてはならない」から、読み方が表向き失われていたのですが、のちの時代のユダヤ人たちは、YHWHに adonai(主)の母音を当てはめてYahowahと記述していたのですが、これを「ヤホヴァ」とか「エホバ」とか発音していたわけではなく、「アドナイ」と発音していました。

 

で、YHWHの元になったのは、モーセが燃える柴の中に現れた神に向かって「あなたはどなたですか?」と問いかけて、神が「私はある。私はあるという者である」と答えたところによります。

昨今、この世がなんらかのシミュレーションであるという仮説が実しやかに囁かれていますが、私たち人間はすべてデータ上の存在であって、いずれは消えてしまうので、「私はある」とは言えない存在なんですね。唯一神だけが「私はある」「I am who I am」と言えるわけです。

 

続くかも