最後のセンチメンタルジャーニー どこへ行こう | 八ヶ岳ゆるふわ日記

八ヶ岳ゆるふわ日記

八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(長篠合戦古戦場 織田・徳川連合軍の馬防柵跡)

 

 昨年、一昨年と東北でお世話になったかつての同僚デカちん(注:全体にデカいので私がそう呼んでいるだけで身体の部分的な特徴を強調しているものではありません)氏。

(2023年2月の東北旅行)

 

 その後デカちんは子会社の監査役として名古屋に単身赴任したが、この3月末には晴れて退任して以降は会社とは無縁の人生を歩むこととなる。

 誰からも好かれ友人も多いデカちんが東京に戻った暁には、性格が歪んでいるうえにケチな私との細い縁も終わるだろう。彼と最後の旅行に行く時間はあとわずか。

 

「もうすぐ会えなくなりますから、思い出作りの旅行はどうですか」

「イマイチおっしゃる意味が理解できませんが(心臓が悪いのかな)」

 おずおずと最後の旅行を切り出すと、心の優しいデカちんは快諾、あちこち調べて奥美濃の一軒宿を予約してくれた。

 

(神明温泉「すぎ嶋」「日本秘湯を守る会」会員宿)

 

 ああ、ありがたや。

 大男は総身に智慧が回らないとはいうものの、気持ちはどこまでも優しい。

 

 宿が決まれば次はどこへ行くか、だ。

 第一候補は長篠合戦古戦場。近所の飲みトモAさんの勧めもあって是非行ってみたい史跡である。

 

 1575年5月21日(現グレゴリウス暦では7月9日)、徳川方城将奥平貞昌以下500の兵が守る長篠城を武田勝頼軍が包囲、これを救援すべく出陣した織田信長・徳川家康連合軍3万8000が武田勝頼軍1万5000と三河設楽原の狭隘地で激突した。

 8時間にわたる激闘は織田・徳川連合の勝利となり、武田軍は山県昌景、馬場信春、内藤昌豊

などの歴将が戦死した。

 勝因は織田・徳川軍の3000挺に及ぶ鉄砲の三段打ちと巷間言われているが、どうやらこれは後世の創作らしい。たしかに鉄砲のつるべ打ちを食らい続けたら8時間も戦線を維持できようはずがない。

 実際は中軍の穴山信君(梅雪入道=信玄公の女婿 のち徳川家康に帰服したが本能寺の変に際し上方で客死)、武田信廉(逍遥軒=信玄公の弟 武田家滅亡の際逐電するも捕らえられ斬首)などの武田一門衆が戦意に乏しく、それが全軍を動揺させたことなどが原因と言われている。

 

(「長篠合戦図屏風」犬山城白帝文庫所蔵 数ある長篠合戦図屏風のオリジナルといわれている作品 合戦の主要人物がくまなく網羅されている)

①織田信長

②羽柴秀吉

③徳川家康

④武田勝頼 

 木曽義昌(信玄の女婿)、穴山信君の寝返りを機に織田・徳川・北条連合の攻撃を受け1582年笹子トンネル付近で自刃 武田家は滅亡する

⑤奥平定昌 

 戦後信長の一字を拝領し信昌を名乗る かねてからの約定どおり家康の長女を娶るとともに銘刀大般若長光(国宝 東京国立博物館蔵)を拝領 徳川一門衆として幕末を迎える

⑥山県昌景 

 武田騎馬軍団において「武田の赤備え」として常に先陣を任されたが緒戦で戦死(屏風では郎党が昌景の首を取って後方に退散するところが描かれている)山県党の残党はのちに「井伊の赤備え」となる

 

「私はこの1年で目ぼしいところはあらかた行きましたので、どこでもお供しますよ。彦根城は一見の価値がありますからいかがですか」

と、際限なく優しいデカちん。

 協議の結果、

・デカちんが名古屋でレンタカーを借り豊橋で待ち合わせて長篠合戦古戦場へ。

・古戦場見物のあとは一路奥美濃へ。

・翌日は彦根城経由で小谷城址に向かい、名古屋でレンタカー返却後に別れの宴。

ということにあいなった。走行距離がバカにならないので、運転嫌いの私も時々は運転を代わらねばなるまい。

 

(名古屋~長篠~神明温泉~彦根城~小谷城~名古屋 総走行距離490km)

 

 それから数日してデカちんから連絡があった。

 奥美濃神明温泉付近は豪雪のためスタッドレスタイヤが必須なのだが、名古屋のレンタカーはスタッドレス装着車がないとのこと。

 やむなく、

豊橋でレンタカーを借り長篠古戦場へ

→豊橋駅に戻り電車で岐阜駅へ

→岐阜駅から宿の送迎バスで往復

→翌朝岐阜駅からレンタカーで彦根・小谷へ

→岐阜駅でレンタカー返却、電車で名古屋に戻って別れの盃

というこま切れの移動となったが、それで旅の興趣が失われるわけではない。

 むしろ私にとっては「運転はデカちんに任せちゃお」ということでいやがうえにも旅のテンションは高まったのであった。