神奈備に昇る立春の朝日と各地の神社との関係についての私見です。
美保の海や美保関に浮かんだ不思議な形をした雲です。何に見えるでしょうか?こちらは白兎海岸に浮かんだ雲です。
18:258月27日の夕方、島根県の美保関の上に巨大な龍のような不思議な雲が出ました。聖なる岬に宿る龍神のようです。口から何かを出している龍の頭のように見えます。全身は島根半島くらいの大きさになりそうですね。島根半島には古くから龍神信仰が根付いているようです。美保関には御穂須須美命が、また龍が向いている方角にある石川県珠洲市の須須神社にも御穂須須美命が祀られています。美保湾の対岸の鳥取県大山町から撮影しました。18:262分前には、美保関に向かうようにこんな雲が・・18:23こちらは美保関、美保湾の夕景です。
美保湾の蛇のような雲 第二弾です。8月16日に撮影しました。
大山町御来屋で8月3日、午前と午後の2回、小学生が恐竜模型の作成(復元)に取組みました。講師はこの分野の草分けとして活躍してこられた荒木一成先生です。先生は大阪から前日に大山町入りし、教室準備も手伝ってくださいました。教室では子どもたちが恐竜の骨格のイメージを元に、関節や筋肉を一人一人紙粘土で復元し、熱心に模型を作っていました。荒木先生は、模型を手元で造りながら説明し、子どもたちの作成過程を一つ一つ見て回りアドバイスされていました。恐竜の外見からだけで作っていくのとは違い、骨格、内臓の位置などの説明を受けながら作った模型は、初めて作ったとは思えないほどの出来でした。(生徒の作成過程)参加者の中には恐竜好きな子どもが何人もいて、難しい恐竜の名前を言って先生を驚かせる場面もありました。子どもたちには夏休みのいい体験になったのではないでしょうか。荒木先生の作品展示もありました。 ん?😅
恐竜模型の作成教室が開催されます。講師は、小学校から高校までの同級生の恐竜造形作家の荒木 一成 先生です。8月3日(日) 9時30分からと13時からの2回です。場所は大山町の「支え合いのまち御来屋」漁村センターです。町外の方でも参加できます。先生は最近では大阪関西万博の関西パビリオンの福井エリヤで恐竜展示模型の制作をされました。(この教室は終了しました。)
黄昏れに現れる古代奈良湖の幻影。生駒山から見渡す光の湖。山裾を洗う海原。虚空見つ日本の国
巳年に不思議な雲が昇りました 🐍美保湾をはさみ美保の関あたりの雲の上に昇っていました。10分くらいすると右斜めに、美保湾の方に移動してきました。🐉海上には弧を描いた波紋が・・
大山ウッドサークルでマグロパーティーが開催されました。今年で5回目になるそうで初めて参加させていただきました。 境港の本マグロで120キロの大物でした。もちろん、鮮度、味はお墨付きです。約120人の参加でしたが食べきれません。赤身、中トロ、大トロと堪能させていただきました。
丹波篠山市に諏訪明神を祀る諏訪神社があります。 その昔、旅人が諏訪の国から里に戻るとき、一人の娘と帰路を共にすることになりました。二人が南丹まで来た時、この娘が川へ飛びこみ大蛇へと姿を変え、山を七巻半したという伝承があります。 諏訪神社の近くには神霊が鎮座するとされる刀美ノ山、飛ノ山、富ノ山と呼ばれる小高い山があります。 富ノ山の上からみて、立春の日の出の方角に、篠山城跡を挟み、篠山川の対岸に綺麗に三角に見える高城山があります。
「少女神 ヤタガラスの娘」の著者、みシまる湟耳さんから「天孫降臨の残映」他にいいね と著書のご紹介をいただき、読ませていただきました。まず、表紙のデザイン、材質がとてもいい感じです。内容は記紀、神話や伝承に登場する姫神に関心がある方や、埋もれた(隠された?)歴史について考察されている方に特にお薦めします。
鳥取市青谷のあおや和紙工房さんおすすめの和紙で簡易なランプシェードを作りました。お手軽に作れて大満足。 窓際の杉板のカウンターの照明にしました。 バックの光の点々は御来屋の漁火です。 こちらは、木製のミニ格子ついたてキットで、青谷の和紙を貼っています。後から照明でライトアップ。玄関のコーナーに置いてみました。
道路を蟹(モクズガニ)が横断していました。横の田んぼの溝から上がってきたのか・・車にひかれたらかわいそうなので、(ほんとは捕まえて食べようかと・・)車に乗せて帰りました。 捕まえようとするとハサミを持ち上げて威嚇していましたが、ハサミが重すぎたのか自分でひっくり返ってしまいました。 かなり強そうで、厳つい奴でした。家でバケツに入れて綺麗にしてやると、(食べるには汚れすぎていた・・)喜んではしゃいでいました。 綺麗になったので、(食べるにはあまり綺麗にならなかったし、時間が経つと情がうつるので・・)近くの綺麗な川(名和川)に逃してやりました。カニの恩返しってあったりして・・(いや食べようとしてたし・・)未だに恩返しはありません。(あたりまえです。)
笠置へ 故郷の伊勢の浜辺で療養していた後醍醐天皇の寵妃は、天皇が六波羅探題の追手から逃れ、笠置山に入られたことを知りました。 姫はいてもたってもいられず、病をおして笠置山へ向いました。しかし、姫が南山城までたどり着いたとき、天皇はすでに笠置山を追われて行方が知れなくなっていたのです。 悲しみにくれる姫は病を悪化させ、帰らぬ人となってしまいました。 姫は亡くなる間際、こんなに悲しい思いは自分が一身に背負い、後々の世の人が苦難に遭わないよう、また天皇の無事の帰還を願って、生まれ故郷の伊勢の海の方角から昇る新年の朝日に祈り続けました。 そして、後醍醐天皇への恋しい想いとともにこの世を去ったのです。隠岐脱出 この日、同じ朝日が美保湾に昇ったとき、美保の海に眠る聖なる女神が、亡くなった姫の想いに応えるかのように目醒めました。(美保湾と美保の関) ほどなく、隠岐に配流されていた後醍醐天皇の脱出計画が実行されました。無謀とも思われる脱出劇でしたが、美保の女神が後醍醐天皇一行を美保湾の中へといざなったのです。 やがて一行は無事に名和の海岸(現在の御来屋港)にたどり着きました。(後醍醐天皇御腰掛岩 大山町御来屋)船上山の戦い 村人から歓待を受けた後醍醐天皇は名和の有力者であった名和長年らとともに、船上山へ行宮し、ここで幕府軍を打ち破りました。 このとき幕府軍は3,000余、これに対する後醍醐天皇側はわずか150余であったと言われています。(船上山で幕府軍を迎え撃つ後醍醐天皇と名和長年ら) この勝利を機に後醍醐天皇は鎌倉幕府を討幕し、建武の新政を行います。恋志谷姫の祈り 故郷の海は二見なのに、再び会うことのかなわない後醍醐天皇への想いを胸にして亡くなった姫を、里人たちは恋志谷姫と呼ぶようになり、祠を建てて祀ったと言われています。 恋志谷姫は、今も人々の平安を願いながら後醍醐天皇への想いとともに南山城の地に眠っています。(恋志谷神社 南山城村)(歴史上の記録や伝承をもとに記載していますが、一部はフィクションです。) 伊勢の海と美保の海を繋ぐ立春の日の出のレイライン美保神社 ー 美保湾 ー 御来屋港 ー 近年歴代天皇が訪れた名和公園 ー 名和神社 ー 南山城、恋志谷神社 ー 伊勢二見浦(名和神社 大山町御来屋)
数年前、韓国人歌手、俳優のオン・ソンウが、米子市や大山町御来屋を訪れ、CF撮影をしたみたいです。 その中で使われた白いブランコ。今は色がくすんできていますが。 ここは美保の関が望め、特に夕日が美しく、夕景の撮影ポイントです。 ブランコに乗り恋人どうしでツーショットがおすすめです。
📘少子化対策 政策提案レポートタイトル「婚姻率向上による少子化対策と福祉費削減に向けた新制度の提案」 — 結婚手当制度と子育て支援施策の連動による社会的 再構築 —1. はじめに 近年、日本社会における未婚化・少子化は急速に進行しており、将来的な労働力人口の減少、経済縮小、社会保障費の拡大など深刻な問題を引き起こしている。これらの背景には、結婚市場における男女の「経済的ミスマッチ」があると考えられる。本提案では、このミスマッチを是正し、婚姻率と出生率を改善するための新制度として「結婚手当制度」を提案し、その社会的・財政的効果を試算のうえ提示する。2. 現状分析:婚姻市場における構造的問題 上方婚・下方婚の傾向と婚姻のハードル• 女性は自分より高い収入の男性を望む傾向(上方婚)。• 男性は自分より収入が少なくても結婚に踏み切れる(下方婚)。• 結果として高所得男性に需要が集中し、その他の男女のマッチングが困難に。 少子化との関係• 結婚が出産の前提となる傾向が強く、未婚率の上昇が出生率低下に直結。• 一定の所得を持つ女性は自立しており、結婚や出産のインセンティブが少ない。• 低所得男性は結婚対象として選ばれにくく、独身率が高い。3. 新制度の提案:結婚手当制度 制度の概要• 導入時期:2027年度• 対象者:結婚後の夫婦のうち所得の高 い方• 支給額(年額):o 年収200万円以下:所得の30%o 年収500万円まで:所得の20%o 年収500万円超:所得の10%• 支給期間:o 結婚後、出産を伴う20代までの 期間は継続支給。o 出産後は「子育て支援施策」と して再編成し支援を継続。• 支給打ち切り:離婚が成立した時点で 支給終了。 制度のねらい• 中・低所得の男性の魅力を相対的に高 め、マッチング促進• 高所得女性にも実益をもたらし、結 婚・出産を後押し• 子育て支援と連動し、長期的に福祉費 削減と出生率回復を目指す4. 経済的・社会的効果(試算例) モデルケースによる試算(※今後詳細データによるシミュレーション要)• 想定婚姻数の増加 × 手当支給額 = 初期支出• 出産数の増加 × 子ども一人当たりの 福祉支出軽減額 = 社会的リターン• シングル世帯減少による生活保護費削 減• 高齢期における扶養負担の家族内吸収5. 制度設計上の課題と対策• 離婚・偽装婚への対策:支給要件の厳 格化、継続的なチェック体制• 地域ごとの格差:地方特例支援の導入 検討• 既存制度との整合性:児童手当・保育 支援と重複しない制度設計6. おわりに 婚姻・出産は個人の自由であると同時に、社会保障制度を維持する根幹でもある。経済的なインセンティブを通じて未婚・少子化問題に対応する本制度は、持続可能な社会づくりへの第一歩となり得る。制度導入による財政負担は、将来的な福祉費削減と税収増によって十分に回収可能であり、国・自治体にとっても大きな意義を持つと考える。✅ 【福祉的効果】1.婚姻促進 → 出生増加 結婚が出産の前提となる日本では、「結婚のしやすさ」は出生率に直結します。結婚を後押しする制度は、出産支援だけでは届かない層にアプローチできます。2.世帯単位での安定 結婚によって生活が安定し、夫婦や親子で助け合う関係が形成されると、生活保護や医療・介護の公的支援に頼る場面が減ります。3.孤独死・孤立の予防 単身高齢者の増加は福祉支出を増やす一因です。早期の結婚や世帯形成は将来の社会的孤立の予防になります。💰 【費用対効果】1.短期的には支出増だが、長期的には福祉支出削減 結婚手当という形で初期支出が生じますが、これにより生活保護費・ひとり親支援・医療扶助など将来的な支出の増大を防げます。2.財源は“福祉支出の削減見込み分”から循環可能 特に少子高齢化で拡大する扶助系費用(生活保護、医療費)を抑制できれば、将来的な財源確保の根拠になります。3.労働人口維持・税収増にも寄与 結婚・出産により人口が維持されれば、労働力確保・年金制度の持続性にもプラスに働きます。📈 【他の対策との比較】• 単に児童手当を増やす、保育所を拡充 する、といった**「出産後」対策**に 比べ、• この制度は「結婚」というもっと手前 の入口を広げる施策なので、• 既存制度の“前段階”を補う形として 政策の網を補完する役割を持ちます。🔍 導入上の注意点• 支給条件の厳密化(偽装結婚防止)• 継続支給の仕組み(出産・子育てとの 連動)• モデル事業での評価データの蓄積と柔 軟な見直し まとめると、この制度は婚姻率向上 → 出生率改善 → 福祉負担軽減 → 財政の持続可能性確保という流れを生み出す構造であり、費用対効果の観点でも極めて合理的かつ現実的な提案だと言えます。 こちらが、モデル自治体で2027年度から5年間にわたって結婚手当制度を導入した場合の概算的な費用対効果を示したグラフです。• 青線(結婚手当支給額):制度導入に よる直接支出。年を追うごとに少しず つ減少すると仮定。• オレンジ線(将来的な福祉費削減 額):出生率の向上などによって、将 来削減できる子育て・介護などの福祉 関連コスト。• 緑の点線(純効果):支給額と削減額 の差。マイナスは赤字、プラスは財政 効果の黒字を意味します。 この試算では、制度開始から数年は財政的に赤字になるものの、5年目には黒字化の兆しが見えてきます。出生率や定住率が順調に向上すれば、長期的には制度による正の財政効果が期待できる構造になっています。• **初年度(2027年度)**は制度導入 に伴う支出が多く、福祉的効果(削減 額)は限定的です。• 年を追うごとに出生・定住促進などに よる福祉費の削減効果が高まり、2031 年度には純効果がプラスに転じる見込み です。• トータルでみれば、5年以内に財政的 な黒字転換が期待され、以後の持続的 な効果によって国家財政・地域財政の 負担軽減が見込まれます。 上のグラフは、全国展開時の結婚手当・子育て支援・生活保護の支出試算(億円)を年度ごとに比較したものです。試算のポイント• 結婚手当(青):年々支給世帯数が安 定化する前提で徐々に減少。• 子育て支援費(緑):出生数の増加に 伴い緩やかに上昇。• 生活保護費(橙):婚姻・定住促進に より徐々に抑制。• 総支出(赤点線):中期的には安定 し、福祉政策全体の持続可能性を高め る見通し。 このモデルでは、出生率上昇と福祉支出のバランスにより、財政面でも中長期的な安定が期待できます。 ※ グラフは文字数制限のため割愛しています。 ※ ChatGPTにて作成
伯耆国一ノ宮は倭文神社ですが、なぜかこの神社、壹宮神社と称されています。祭神はともに下照姫となっているのが興味深いです。近くに唐王神社があり、祭神は須勢理毘売命で、この地では二人は母娘と言われています。須勢理毘売の娘でスセリツヒメ・・セオリツ・・無理がありますか・・
孝霊天皇所縁の孝霊山の麓に、須佐男命の娘 須勢理毘売命をまつる唐王神社があります。大国主命の正妻で、この地では海からやってきたため、唐王御前と呼ばれていたそうです。須勢理毘売命の鎮座地とされています。近くには下照姫をまつる壹宮神社もあります。
出雲、倭、伊勢、日の出を結ぶ三つのレイライン 立春の日の出に向かう天孫降臨の残映 ① 石上神社・宇美神社(布都御魂神) ー 八雲山・蛇山・熊野大社(日本火出初社) ー 鏡作坐天照御魂神社 ー 他田坐天照御魂神社・纏向遺跡 ー 三輪山 ー 瀧原宮 ー 浅間山 宇美神社のある平田市には須佐之男命生誕地伝承があり・・・ 三輪山には纏向遺跡、出雲の地名、近くには布都、布都斯、布留御魂を祀る石上神宮と布留の地名が・・ 須佐之男命三代のレイライン・・・② 粟嶋(少彦名命) ー 大山・蒜山 ー 生駒白庭・真弓塚(饒速日命) ー 平城宮跡・佐紀古墳群 ー (東大寺) ー 伊勢天岩戸 ー 伊雑宮 ー 的矢湾の日の出 粟嶋は大山に昇る立春の日の出の遥拝地か・・ 少日子、若日子、饒速日・・ このレイラインから、生駒山に天孫降臨伝説のある饒速日命は出雲の神で、東出雲からの天孫降臨・・・ 高千穂峡から夏至の日の出の方角には生駒白庭、饒速日山の日下(大山の麓にも日下が)があり、ここで神武軍と登美長髄彦が交戦・・ できすぎた話・・③ 天神垣神社(少彦名命)・向山古墳群・お経堂山 ー (上淀廃寺跡) ー 孝霊山・鈑戸山 ー 摂津三嶋溝杭神社上の宮(勢夜陀多良比売、媛蹈鞴五鈴姫) ー 竜王山・石船神社(饒速日命)・天王町 ー 京都府加茂町(賀茂県主) ー 外宮・豊受大神宮 ー 朝熊山※向山古墳から上淀廃寺跡の方角を撮影。左手前に見える小山(お経堂山)が、立春の日の出の遥拝地としては最適。※上淀廃寺跡(東大寺と同じように朝日を遮るように配置) 孝霊山の麓には発掘の進んでいない日本最大級の遺跡、妻木晩田遺跡が・・ 近くの古い神社に祀られているのは、須勢理毘売、天忍穂耳命と下照姫、少彦名、賀茂別雷神・・ 摂津に賀茂建角身命、事代主命、勢夜陀多良比売、媛蹈鞴五鈴姫・・ 孝霊山の麓には大穴牟遅神、須勢理毘売と下照姫、天若日子、饒速日命・・ 賀茂氏所縁の地か・・ 葦原中津国から出雲へ協力を求めてやってきて、須勢理毘売と手に手をとって摂津、倭を開発し治めた大国主。 母から十種の神宝を引き継いだ娘の勢夜陀多良比売は、龍王山の大物主(饒速日)の日の巫女となり、大歳と結ばれ下照姫となる。 事代主と呼ばれた大歳は、後の神武天皇を、十種の神宝を引き継いだ娘の媛蹈鞴五十鈴姫の婿に迎えた。 須勢理毘売は大国主とともに出雲へ戻り、大歳の没後に下照姫は、鳥見山から見た倭の風景に似た東郷湖の畔で余生を送った。 かつて国造りをする者が日の出の方角へ向かったのは、その方角にある土地(青垣)を栄えさせるためと考えられます。 日の出に向いた神社の鏡に手を合わせるとき、日の出に背を向けることになりますが、神社から見てその場所は日の出に向かって上座であり、幸福を呼び込む場所なのです。(日の出を背にする神社もありますが・・) 日の巫女が太陽に向かって立つのも、民を上座に置くためです。 家の中の神棚も日に向けています。神棚に祀っているのはもしかすると日の巫女かもしれません。 たとえば、豊受大神宮から朝熊山の日の出を拝して栄えた地は伊勢市。 少彦名の粟嶋から大山の日の出までの間に栄えたのは米子市。などです。 朝日を遮る場所や川上、風上に置くものはよく考えなければいけません。
大物主に祟られた男 崇神天皇の国家再建1 崇神天皇と大物主の人口戦略 第十代崇神天皇といえば出雲系の神である大物主(三輪の神、大国主、スサノオやニギハヤヒとも言われている。)の祟りを恐れた弱いイメージのある天皇です。しかし、もしかすると彼は国の危機を救い、国の再建を果たしたスーパースターだったのかもしれません。 崇神天皇の御代、飢饉や疫病の蔓延で人口が激減し、国は存亡の危機に直面していました。そんなとき、かつて大国主命の前に海から現れ「我を倭の青垣の東の山の上に祀るなら、国は栄えるであろう」と告げた神、大物主が崇神天皇の夢に現れ、「我を祀るなら国の平安を約束する」と告げたのです。天皇がその言葉どおりに大物主の祭祀を行うことで国は平安を取り戻します。 そもそも大物主は三嶋溝杭の娘である勢夜陀多良比売(その娘は富登陀多良五鈴姫で神武天皇の后)の前に「丹塗りの矢」となって現れ、結婚し、子孫を残したとされる神です。二人の間に生まれた子は別雷神で上賀茂神社の祭神となり、各地の神社で祀られています。以後、賀茂氏、天皇家が栄えていくこととなります。私は大物主が大国主命の前に現れた農耕の営みの基準を示す神であるとともに、男女の結びつき、結婚と子孫繁栄の神でもあったと考えています。 ここからは私の考察です。崇神天皇は各地で大物主を祀らせ、祭を行わせました。各地の長老たちが経験と知恵を出し、若者、男女が技術と力を合わせて祭を行ったのです。一人一人が得意分野で活躍することでいきいきと輝きます。男は女の、女は男の魅力に惹かれ、やがて結婚という形で実を結んでいきます。これはまさに勢夜陀多良比売と大物主の出会いの再現です。こうして結ばれた男女が子を産み、子孫を残すことで飢饉や疫病で衰えた国が徐々に活力を取り戻していったのです。2 大物主に祟られた現代の結婚事情(結婚のミスマッチ) 現在、我が国は農業の衰え、感染症や出生率の低下などで国力を失いつつあります。地方創生事業や子育て支援などを対症療法的に講じていますが、なかなか歯止めが効きません。それもそのはずです。根本の問題は男女が結婚しなくなっているところにあるからです。結婚は古事記の神代の時代から続く国を支える根幹的制度です。男女が結婚することで経済的に強い方が弱い方を支え、子供を産み、親子や一族が協力し合って生活していくための最初の一歩というわけです。国は様々な福祉施策を行なっていますが、言わば結婚制度こそが国を支える一番の福祉制度とも言えるのです。若者たちが結婚から遠ざかっている現在の国の状況は、まさに大物主に祟られている状態にあるようです。 結婚制度を維持していくためにも地方では、自分たちのまちのためにみんなが力を合わせて地域の活性化に取り組んでいく。政治も産業もイベントも趣味も、祭のように全員参加でそれぞれの能力や知恵を精一杯発揮して個々人が活躍してまちを盛り上げていき、楽しく魅力のあるまちづくりを進めていく必要があります。 他方、国は男女が結婚しやすくなる施策を講じる必要があります。現代では崇神天皇の時代のようには行きません。婚姻率の低下の要因は、現代人の多様化した生活や意識にあるように言われることがありますが、それだけではありません。結婚制度は神代から続いてきたもので、そこには男女それぞれが持つ価値観に違いがあり、それは普遍的なものだからです。現代ではその価値観を満たすことが難しくなってきているのです。 男女間で普遍的な価値観の相違があり、一番の結婚の障害となっているのが男女の収入の問題だと思われます。男女それぞれが相手に求める収入が違っているのに社会全体でそれを満たす男女の収入状況になっていないのです。このため男女間でミスマッチが生じて結婚しない、できない、婚期を逃すという状況が多く発生していると思われます。 女性は上方婚、男性は下方婚の傾向にあると言われます。女性の場合、高収入になると自立して充実した生活ができ、特に出産を望まなければ結婚に魅力を感じないでしょうし、求める相手も、より高額所得者となるのでなかなか相手に恵まれません。また、収入がない、または低い女性は安定した生活のため自分よりさらに高い所得で一定以上の所得を相手に求めます。 一方、高所得の収入層の男性は自分より収入が少なくても、家事手伝い(既に死語?)であっても結婚相手として選びます。これで結婚相手としてマッチするのは中所得以下の女性と高所得の男性です。ここで問題となるのは高所得の男性はごく少数で中所得以下の女性は圧倒的に多数ということです。高所得の男性は、ほとんど結婚にこぎつけ、大多数の中所得以下の女性は婚期を逃します。中低所得の男性は結婚できず、全体として成婚率は低くなります。結果として少子化に拍車がかかるというわけです。婚姻率を高めるためには、結婚におけるこの男女間のミスマッチの状態を打ち破る施策をとる必要があります。3 婚姻率を高める「丹塗りの矢政策」 こんな状況の時代で崇神天皇ならどんな手を使うでしょうか。私は「丹塗りの矢」を用いると思います。勢夜陀多良比売の心を射抜いたあの丹塗りの矢です。 婚姻率を高め、出生率を上げ、夫婦や親子間の扶養義務を果たし、互いに助け合って生活することで国、地方の福祉にかかる経費は大きく削減されると思われます。この婚姻率上昇による福祉的効果による国等の福祉費削減の試算を行ったうえで、これを将来的な財源として使います。 具体的には結婚した男女のいずれか所得の高い方(経済的に家計を支える率の高い方)一方に、その人の所得に応じて割合を定めて結婚手当を支給するのです。例えば所得が200万円までならその所得の4割、500万円までなら3割、それ以上なら1割という感じです。これによって低中所得の女性からみて同程度以上の所得の男性の魅力がアップします。さらに高所得の女性も自らの所得が増えるので自分より低い所得の男性に対しても結婚に対して前向きとなるでしょう。また、出産、子育て支援への公的負担の軽減や、婚姻率上昇により生活保護費の削減、高齢者の孤立問題にも効果が期待できます。 要するに結婚のミスマッチを起こしている結婚後の所得状況に結婚手当という「丹塗りの矢」を打ち込むのです。4 先人たちに学ぶ国の在り方 男女の結びつき、結婚は、人口の維持や福祉を増進させて国を安定させる国家の基となるものです。このことを今あらためて再認識する必要があります。古事記などの神話や御伽草子は、このことを後世に伝えています。ときには過去を振り返り、古の先人たちの声に耳を傾けることが必要だと感じるのです。
大阪府、奈良県、京都府の境から南北に横たわる生駒山系には交野山(大阪府交野市)という山頂に巨石がある神奈備があり、大晦日からこの山に登頂し、元旦に御来光を迎える人たちがいます。古来より 日本人は、初日の出を神聖なものとして扱ってきました。かつて正月は立春(24節気<中国の紀元前5世紀から紀元前221年の戦国時代に確立>の最初)の頃だったので、大昔の人々は、立春の頃に初日の出を遥拝していたのではないでしょうか。 交野山のように神奈備と呼ばれる山は、麓から見て三角形であったり、形が整っていて秀麗で、周りの山から独立した峰であることが多いようです。また、必ずしも最高峰というわけではなく、かえって小高い山が多いように思います。旧の正月は一定しないので、大昔、麓から立春に神奈備の山頂に昇る朝日を遥拝していたと仮定し、その麓に当時の何らかの痕跡があるのではないかと、地図と睨めっこをして調べてみました。 交野市の交野山については、この山に立春に日が昇るのは、麓の交野市倉治という地域から見たときです。伊勢の朝熊山(後述)も同じ方角にあたります。交野警察署あたりから見るとこの方角になり、交野山が最も綺麗な形に見えるのです。 また、交野市寺や私部には、交野山と並んで見える龍王山という弘法大師所縁の山から日が昇り、その方角の山裾には住吉神社(創建年不詳、祭神:住吉三神)があります。この神社の元々の祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(以下饒速日命)と伝えられていて、山の名称を考え合わせると興味深いです。そして龍王山の先では、京田辺市の石船神社(創建年不詳、祭神:饒速日命)、伊勢市の豊受大神宮(後述)が立春の日の出の方角にあたります。 この龍王山には、茨木市の溝咋神社(創建年不詳、祭神:玉櫛媛命、媛蹈鞴五十鈴媛命)から、また東出雲の孝霊山から見ても立春に朝日が昇ります。孝霊山の麓には、下照姫や須勢理毘売命を祭神とする古社があり、日本海から伊勢までの日の出のレイラインを構成しています。 交野市の市街地から生駒山系の方角は東のように錯覚しがちですが、実際には東から南側に振っていて、ほぼ立春の日の出の方角にあたります。生駒山系の北部、交野市の哮峯の磐船神社や京田辺市の石船神社に降臨伝説のある饒速日命の「虚空見つ日本の国」とは天の川の北側に広がっていた交野が原のことではなかったかとも思えます。このように、神奈備が立春の日の出の方角に見える地域で、関係がありそうな古い神社などが、他の地域でも確認できました。 出雲神話や風土記に登場する神奈備を見てみましょう。まず島根県の仏経山、この山には出雲市大社町や出雲で最も有名な出雲大社(もと杵築大社、創建年不詳、祭神:杵築大神)から見たときに立春に日が昇ります。その他の地域でも、神奈備と思われる山を調べてみると興味深いことがわかりました。 島根県松江市古志原町の山代神社(創建年不詳)には、茶臼山から立春の日に朝日が昇ります。山代神社は西暦1680年に茶臼山の山腹から現在の小高い山に移されていて、祭神は地域開発神、山代日子命と伝わっています。中海と宍道湖がまだ繋がっていた頃、越の国からこの地域に住み着いた人たちが、立春にこの小高い山から茶臼山に昇る朝日を拝して、松江の平野を開拓していたのでしょうか。このあたりから望む茶臼山は、やはり美しい山容を見せています。 そして、大国主命とスサノオの末娘の須勢理毘売が国造りを語り合ったかもしれない伯耆富士といわれる大山に立春に日が昇るのは、かつて中海の小高い小島であった米子市の粟嶋神社(創建年不詳)で、祭神は大国主命の国造りの協力神といわれる少彦名命とされています。この神社と大山の間には日下という地名があり、交野市と同じように扇状地に縄文期からの遺跡や日下神社、大神山神社本社(祭神:大穴牟遅大神)があります。粟嶋からは日の出のラインが少しずれるため調べてみると、少し内陸側にも小高い島の名残のような場所を見つけることができました。このラインも的矢湾まで続く壮大なレイラインとなっています。 九州へ渡り、福岡県北九州市では、一宮神社(祭神:大歳神、建御名方神、神倭伊波禮毘古命)に神功皇后の伝説が残る皿倉山から立春に朝日が昇ります。さらに久留米市の筑後國一之宮、高良大社(鎮座367年、祭神:高良玉垂命)・高良玉垂命神社や祇園山古墳からは高良山が立春の日の出の方角に当たります。 また、和歌山県和歌山市の紀伊國一宮の日前神宮(創建神武天皇2年、祭神:日前大神)(もともと紀伊國一宮の伊太祁曽神社、(創建年不詳、祭神:五十猛命)があった場所)からは、大日山から立春に朝日が昇ります。 次に、神武東征でイワレヒコが生駒山系の麓、大阪府東大阪市の孔舎衙で白庭登美のナガスネヒコと交戦し、弓をひいた方角にある山が饒速日山(生駒山頂の北側)といわれています。この山は、孔舎衙から立春に日が昇る方角にあり、この山に昇る朝日に向かって弓を引いたことが敗因であるとしてイワレヒコは兵を退いたことになります。縄文海進の名残で、大阪湾が河内地域まで広がっていた頃、この東大阪市北東部は既に陸地で、立春に饒速日山に昇る朝日を拝していたと考えられないでしょうか。 さらに、奈良県田原本町の鏡作坐天照御魂神社(創建紀元前92年、祭神:天照国照日子火明命)と桜井市の邪馬台国大和説の根拠となっている纏向遺跡あたりに立春に朝日が昇るのは、三輪山からで、纏向遺跡周辺からは一段と美しい三輪山を見ることができます。三輪山からさらに日の出の方角に視線をのばすと三重県大紀町の瀧原宮、瀧原並宮(ともに創建年不詳、祭神:天照大御神の御魂、速秋津日子神と速秋津比賣神とも)があり、その後方の浅間山から日が昇ります。そして逆に三輪山から真後ろに振り返ると、さらに興味深いことがわかりました。 立春の夜明け、三輪山に向かって立春の日の出の方角から、後ろの正面に振り返れば、田原本町の鏡作坐天照御魂神社(創建紀元前92年、祭神:天照国照日子火明命)、広陵町の櫛玉比女命神社(創建年不詳、祭神:櫛玉比女命(御炊屋比売命))の先に、スサノオノミコトが鎮座する「日本火出初社」といわれる島根県出雲國一宮の熊野大社(創建年不詳、祭神:熊野大神櫛御気野命)があります。その先はスサノオ所縁の八雲山(御室山)、スサノオ生誕地説のある出雲市平田町の宇美神社(創建年不詳、祭神:布都御魂神)と愛宕山や石上神社に至ることがわかりました。 立春の朝日に向かって、スサノオ生誕地に布都、八雲山には布都斯をあてると、三輪山では布留となるでしょうか。スサノオの家系3代が一直線に並ぶ日の出のレイラインとなっています。また同じ方角に田原本町には、富都神社、三輪山の先には出雲の地名があります。 次に、三重県伊勢市内中心地、豊受大神宮(創建年不詳、祭神:豊受大御神)(神宮外宮)には朝熊山から立春に日が昇ります。また、京都府宮津市の丹後国一宮、籠神社(創建年不詳、祭神:彦火明命)には福井県高浜町の若狭富士と呼ばれる青葉山から立春に日が昇るのです。(青葉山を目視するには神社からさらに山に登る必要がありますが・・) そして奈良県生駒市白庭には、神奈備か祭りの庭か定かではありませんが、奈良市の登美ケ丘の真弓塚から、また真弓塚には三笠山から立春に日が昇ります。 立春に水平線から日が昇った後、南寄りに昇りながら神奈備山頂に日が差し掛かるまでの時間差のため、これらの朝日を拝していたと思われる麓の場所は、少し北側にずれているようです。そして、多くの場所に共通しているのは、縄文海進の時代には海や湖の島であったり、平野部の小高い場所であり(篠山市:高城山と諏訪明神や大蛇伝説のある富ノ山あるいは飛ノ山、丹波市:霧山と大歳明神宮など内陸にもみられますが)、その後陸地が拡がり(葦原の中つ国)人が住み着くようになり、現在まで数千年もの間、地域の中心地として繁栄してきた場所であるということです。神奈備と麓との関係が有史以前に遡り、神社などの成り立ちが不明であることから、この関係をはっきりと証明してくれないことが残念です。ですが、その地域が、神奈備から昇る立春の朝日を神聖なシンボルとして開けてきたとすると、まるで意志を持って行われた有史以前の国土開発のようにも思えます。そしてそれは、その地の古くからの神社に祀られている祭神たちと関係があるのかもしれません。 では、立春以外の節気に神奈備に昇る朝日と関連しそうな場所はないでしょうか。大和國一宮の桜井市の大神神社(創建最古、祭神:大物主大神)の拝殿からは夏至に三輪山に朝日が昇りますが、建立されたのは江戸中期とされています(大神神社の祭神を否定するものではありません)。また、同様に神武天皇陵にも夏至の朝日が三輪山から昇ります。場所の選定にあたり夏至に朝日が昇る土地が選ばれたのかもしれません。近年では、大津市の近江神宮も京都市山科区の日向大神宮から見て夏至の日の出の方角に建立されています。 奈良市春日大社(創建768年、祭神:春日神)には春分の朝日が春日山から、さらに伊勢の神宮内宮(創建垂仁天皇26年、祭神:天照坐皇大御神)には、夏至の朝日が富士山から昇ります。少し興味深いところでは、東大阪市の若江鏡神社(創建年不詳、祭神:大伊迦槌火明神)は、春分の日の出の方角の生駒山系南部に向いていますが、同時に、夏至には饒速日山から、冬至には三輪山の方角から日が昇り、入射角と反射角が一致するこの二つの山に昇る朝日が、まるで秘かにお互いに春分の日の出に向いた神社の鏡に映し合っているように見えます。 私が調べた限りでは、立春の日に神奈備から昇る朝日を拝する場所にあたる神社や史跡などは、立春以外の節気に日の出を拝する場所にあたる神社や拝殿などより、創建や成り立ちの時代が古いように見えるます。これは私の想像ですが・・その昔(紀元前)に出雲に海を渡ってきた者があって24節気を伝えました。そして、「この国の美わしい土地の東の山の上に昇る立春の朝日に名を付けて奉り、ともに国を豊かにしよう。」と先住の国主たちを出雲に集めて打ち合わせをして、各地に神奈備と観測地点を定めたのです。縄文海進終了後に拡がっていった平野で治水を行ったり、鉄を使った農器具を普及させながら開拓し、農耕地の拡大を図っていきました。各地の国主の姫を巫女として神奈備に昇る立春の朝日に神名をつけて奉り、眩しい朝日を鏡に映して観測し、日読みをして二百十日の風が吹くまでに収穫を終えるよう立春を稲作の基準に据えて栄えていきました。しかし、いつの頃かなぜかその歴史や功績が消し去られてしまいました・・それでも現在まで各地で毎年、日の神や巫女を祭神として豊穣を祈ってお祭りをし(鏡餅の起源は、神奈備とそこに昇る朝日ではないか?)、実りに感謝しながらその営みは綿々と続いてきたのです。 大山山頂の虚空から、大国主命と須勢理毘売の目を借りて、少彦名命の粟島を背に立春の日の出の方角を見下ろせば、一直線に遥かに摂津溝咋の地を抜け、天孫が天降ったとされる生駒山系に至り、登美ナガスネヒコの本拠地の白庭、真弓塚、佐紀古墳群(神功皇后陵など)、平城宮跡、三笠山からさらには伊勢天の岩戸、倭姫命をいざなった伊佐波登美命を祀る志摩國一宮、伊雑宮(創建年不詳、祭神;諸説あり)と佐美長神社(創建年不詳、祭神:大歳神)を超え、的矢湾の岬と岬の間(海の岩戸?)の水平線から立春に朝日が昇ります。 出雲から的矢湾までの壮大な日の出のレイラインが描かれています。 また、神武東征の発端となったとされる日向高千穂には、孔舎衙や白庭の方角から夏至の朝日が昇ります。出雲(大山)へ昇る穏やかな立春の朝日と、日向高千穂へ昇る激しい夏至の朝日の二つの日の出のラインが、生駒の白庭でぶつかるのは何ともできすぎた話に思えるのです。 立春に神奈備から昇る朝日に思いを馳せるとき、かつての日下に、神話のベールに覆われて見失われた先人たちの国造りの歴史の一片を垣間見たような気がするのは私だけでしょうか。 遥か昔、各地の神奈備の上に奉じられた神は、「海を照らし、国を照らして昇る日の出、天の日明かりである、暖かで穏やかな立春の朝日」、ニギハヤヒだったのではないかと思うのです。