笠置へ
故郷の伊勢の浜辺で療養していた後醍醐天皇の寵妃は、天皇が六波羅探題の追手から逃れ、笠置山に入られたことを知りました。
姫はいてもたってもいられず、病をおして笠置山へ向いました。
しかし、姫が南山城までたどり着いたとき、天皇はすでに笠置山を追われて行方が知れなくなっていたのです。
悲しみにくれる姫は病を悪化させ、帰らぬ人となってしまいました。
姫は亡くなる間際、こんなに悲しい思いは自分が一身に背負い、後々の世の人が苦難に遭わないよう、また天皇の無事の帰還を願って、生まれ故郷の伊勢の海の方角から昇る新年の朝日に祈り続けました。
そして、後醍醐天皇への恋しい想いとともにこの世を去ったのです。
隠岐脱出
この日、同じ朝日が美保湾に昇ったとき、美保の海に眠る聖なる女神が、亡くなった姫の想いに応えるかのように目醒めました。
(美保湾と美保の関)
ほどなく、隠岐に配流されていた後醍醐天皇の脱出計画が実行されました。
無謀とも思われる脱出劇でしたが、美保の女神が後醍醐天皇一行を美保湾の中へといざなったのです。
やがて一行は無事に名和の海岸(現在の御来屋港)にたどり着きました。
(後醍醐天皇御腰掛岩 大山町御来屋)
船上山の戦い
村人から歓待を受けた後醍醐天皇は名和の有力者であった名和長年らとともに、船上山へ行宮し、ここで幕府軍を打ち破りました。
このとき幕府軍は3,000余、これに対する後醍醐天皇側はわずか150余であったと言われています。
この勝利を機に後醍醐天皇は鎌倉幕府を討幕し、建武の新政を行います。
恋志谷姫の祈り
故郷の海は二見なのに、再び会うことのかなわない後醍醐天皇への想いを胸にして亡くなった姫を、里人たちは恋志谷姫と呼ぶようになり、祠を建てて祀ったと言われています。
恋志谷姫は、今も人々の平安を願いながら後醍醐天皇への想いとともに南山城の地に眠っています。
(恋志谷神社 南山城村)
(歴史上の記録や伝承をもとに記載していますが、一部はフィクションです。)
伊勢の海と美保の海を繋ぐ立春の日の出のレイライン
美保神社 ー 美保湾 ー 御来屋港 ー 近年歴代天皇が訪れた名和公園 ー 名和神社 ー 南山城、恋志谷神社 ー 伊勢二見浦
(名和神社 大山町御来屋)