貴方が残してくれたもの
”金スマ特別編~パク・ヨンハ追悼~32歳でこの世を去ったパク・ヨンハの人生とは”を観た。
観たら辛くなるだけ、だから観ないでおこうと思った。それでも、観ずに後悔したくはなかった。
先日記事にしたランドマークの場面が映った。やはりそうだった、仕事帰りの私が観た通りのヨンハさんだった。歌っている途中、感極まって涙する彼。あれが、歌手としての初舞台だったのか!初舞台は本国の韓国でない日本の、それも横浜のランドマークだったとは!貴方の歴史的瞬間に彼のファンに混じって私も居合わせることが出来たとは!そうだったのか、そうだったのか。それなのに、私はその当時2004年から今まで何事にも集中できなかった。その年は念願8年ぶりのデヴィッド・ボウイの公演さえも観に行かなかった。私には余裕が無かった。その頃からヨンハさんをテレビでよく見かけるようになった。そして、いつかコンサートを見られる日が訪れてくれる事を願っていた。唯、日々の私は自分自身のことで精一杯だった。そして、そうこうしているうちに、ヨンハさんは飛び立ってしまった。何という事だろう。私にとっての貴方は、貴方の初舞台と貴方が飛び立った知らせで殆ど終わってしまった。
私は覚えている。サッカー日本代表のベスト8進出叶わずその後ベッドに横たわったのが午前2時過ぎ。そして、誰かに無理矢理起こされるような感覚に囚われて一時的に目を覚ましたのは貴方が飛び立った4時過ぎ頃。寝ぼけながらも枕元の携帯で時間を確認している。気配を感じたそれは貴方だったのか?そうだとしたら、私と似た状態が貴方のファンにも起こったはず。
番組の、多忙の最中無理をして自らファンの患者を見舞ったという話の件で、”貴方が先立った事は許せないけれど、私達に想像もつかない辛さや苦しみがあったのでしょう、貴方の分まで私は生きる”と話すファンである彼女。(実際は病で語ることは出来ない)その中の、”貴方の分まで生きる”という言葉は印象的だった。ああ、そうか、そうだね、貴方の分まで生きると思えば、私も生きてゆかなければ!と思った。貴方は確かに日本と韓国の架け橋という重要な役目を果たしたんです。でももう貴方は居ない。飛び立ってしまった。残された私達が貴方の分まで生きるとはどういうことなのか?貴方が私達に残してくれたものに感謝し忘れないということだ。でも、今の私にはそれも虚しい。私にとって貴方は何だったのだろう?私はそれを今生で知ること、それが課せだ。いずれにしろ私達もいつか飛び立つ、早かれ遅かれ、それだけの違い。
無常迅速
クイーンズから桜木町駅へ向かう途中のランドマークで、彼を確か2度観かけたことがある。彼が話し歌う姿は、仕事帰りの私を癒してくれた。後になってその様子が報道番組で流されていた。そこには、涙を流しながらファンに応えている彼の姿が映っていた。彼の事を 冬ソナ放映後から気になり出していた私は、それを観たことで一挙に虜になってしまった。それは、年増女が若い男の子にのぼせるものとは違った。勿論それはそれで構わないのだけど。真摯な彼の態度に心打たれてファンになった女性の方が多かっただろうと思う。韓国の俳優や女優や歌手に夢中になる女性の気持ちが理解できたような気がした。それは、日本のそれとの違いが歴然としている事に気付いたからなんじゃないかしら。気構えが違う。大人であり、そして、ピュアであること。
ここまで冷静になったつもりでこうして打っているけど、もう無理です。ずっと泣いていた。私には、彼の辛さ、父親を想う気持ちが、少しは理解できるつもり。だから神様、どうか彼を許して欲しい。唯、残されたご家族のことやファンの事を考えると辛い。私も当分立ち直れない。この気持ち、どうしたらいいんだろう、パク・ヨンハさん、私はどう立ち直ればいいですか?貴方が飛び立ってから未だ1日も経っていない。
(追記 2010/07/02金)
「さよならヨンハ」盆唐メモリアルパークで永眠
http://contents.innolife.net/news/list.php?ac_id=4&ai_id=117000
http://www.chosunonline.com/entame/20100702000067
昨夜見たテレビで、マイケル・ジャクソン氏の恋人だったタチアナという女性がインタビューに答えていた。そして、マイケルの死んだ日、私の中の少女も死んでしまった、私は何故生きているの?私の生きる目的は何?と、涙ながらに話していた。
パク・ヨンハさんも私にとって心の拠り所だったのだと思い知らされている。今は只虚しいだけ。
”ジャパン” 1979LIVE at Budoukann in Tokyo

やっと届いて早速動画アップ&貼り付けた。

CD盤には、For Fans Only の文字がある。ケースの表紙が、ペッラペラに薄い。こういうのが、ブートレッグな訳ね?!。見るも買うも初めての経験。

10曲入ってる中においては、この曲がやはり自分には一番だと改めて認識。それも、このライブで奏でる音が好きなんです!
当時このライヴをラジオで聴きながら自分はテープに録音したんだろう。多分、テープが伸びるまで聴いたんだ。ミック・カーンの、引き摺るように重たいベース。間奏からエンディングにかけての、淡く儚く切ないシンセサイザーオルガンが印象的。咽び泣くギターの音色。そしてD・シルヴィアンの気怠い雰囲気漂う歌声。
高校1年生の私は(初来日公演は3月なので、その後聴いたとなると、私は高校2年生になっている)、感傷的にこの曲を聴いていた。その後、デヴィッド・ボウイのアルバム LOW や太宰にどっぷり浸かる十代の私、よろしく哀愁どざえもんは避けたいミタイナ意味不明。そう言えば、明日は桜桃忌。
セックス・ピストルズ
ジョンライドンが、爆笑問題の太田に見えてきた。
(以上)

God Save The Queen/ Sex Pistols
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(以下コピペ)
今や伝説となっているロンドン・パンクムーブメントの立役者。音楽面というより、レコード会社に2回も契約を破棄され、王室を批判するなどまさに抵抗というパンクの概念にふさわしい行動により名を残した。ニューヨークパンクの雄、ニューヨーク・ドールズのマネージャーだったマルコム・マクラーレンがロンドン・キングス・ロードのブティック『SEX』の客だったジョニー・ロットン(vo)、スティーブ・ジョーンズ(g)、グレン・マトロック(b)、ポール・クック(ds)にバンドを組ませたのが始まり。76年に原色に染めた髪と安全ピンで留かれたた服で登場、政府批判の「アナーキー・イン・ザ・UK」でデビュー、センセーショナルを巻き起こした。77年の「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」は全英2位の大ヒットとなった。しかしソングライティングを手がけたベースのグレンが脱退、シド・ヴィシャスが加入、ファッション的には派手になったが楽曲面では苦戦を強いられることになる。同年唯一のアルバム『勝手にしやがれ!!』が発売された。78年の全米ツアー中にジョニー・ロットンがバンドを脱退、解散となった。
(以上コピペ)
Anarchy in the UK /Sex Pistols
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ジョン・ライドンが、デヴィッド・ボウイに憧れていたと知った時は、驚いた。
dbのコンサートでは、楽屋からギターを盗んだという話。
「ロックは死んだ」発言は有名だけど、それを最初に言ったのがボウイだ。
因みに、デヴィッド・ボウイは、皇室から授かるはずだった称号ナイトを断ったという話だ。カッコいい!この点においては尊敬に値すると思っていいんだろうか?「ボウイ、貴方に Sir は似合わない。」なんちゃって♪ジョン・レノンはそれを授かった後に返している。ポール・マッカートニー氏やミック・ジャガー氏やエルトン・ジョン氏の場合は、周知の通り。もらえるもんはもらっとけってか。
こうして改めて聴き観ると、彼等は勿論、ニューウェーブも、今の時代より断然刺激的だ。十代をそういった時期に過ごすことができた幸せに感謝したい。
女王や保守に盾突くバンド、英国らしくて最高です♪わたしもどっちかてえとそっち系になると思う苦笑。その点、DBは立ち回るのが巧みです。今のご時世ボウイのように世渡りの上手い人の方が多いです。
シティ・サーファー/アナーキー
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私が18歳頃だったか、日本のアナーキーというパンクバンドがブレークして、印象に残っている曲は、”シティ・サーファー”。当時は、サーファーファッションが流行っていた。が、流行の波に乗る格好だけの”丘サーファー”であると皮肉っている。丘サーファーな格好は、度合いによっては好印象に見えるので、親御達に受けのいい無難なファッションに成り得た。
流行を過剰に意識する意味においては、私も同じ穴の狢というか同類項だったかも知れない。イデタチは、テクノ又はカラス族系の、世間的には奇異な眼で見られがちな私には少し勇気がいるファッションだった。なので、異種族としてサーファーを囃し立てたい気持ちを正直持っていた。女が、オリビア・ニュートンジョンみたいに男受けのする恰好をするのは簡単なんです。でも、反抗期から卒業できなかったらしい。常識とか世間一般に受けがいいものを否定とにかく拒否したかった。常識アレルギーだ。
それなのに、ああそれなのに、そんな自分が気になる男性は…サーファーだったという、落ち。但し、丘のほうではないよ。男と女は互いに違うものを求めるからかしら?ピン爆
当時はパンクを聴くのは苦手だった。その一方、イヤでも目に付いたので結局面白がってテレビや音楽誌をつい観たもんだった。”保守体制に逆らう”という意味ではそそられたから。そうかと言って、私は”←”ではないので誤解なきよう。勿論、”→”でもないから!(今夜は、蒸しそう)
ところで、特攻隊服の”→”なのに、パンクしてるバンドをテレビで観た事があって…、解せぬ(ケータイCMの阿部サダヲ風)。まっ、ドーデモいいや、何でも有りなんだろうから・核爆。
神話の裏側
(1987年発刊。表紙の写真も、グラス・スパイダー・ツアーが行われたその年と思われる)
”神話の裏側” は、デヴィッド・ボウイがこれを床に叩き付けたという曰く付きの本。
(総数464頁 文字の大きさは文庫本のものと変わらない 分厚い)
話の半分は、レコード会社とマネージャーとその周辺の人間関係を含む金銭に纏わる問題。残りの半分が、家系家族周囲と音楽の話。
レコード会社及びマネージャーとの契約という手続きの、スターを夢みるだけで済まされない商売の世界は不得意なボウイの側面が、アルバム創作やライヴ活動に相当なダメージを受けた彼の様子から窺える。
対象人物によって偏りがちなロックライターの書く散漫な構成の代物ではなく、また、スキャンダルを書き綴ったものでもない。
あらゆる話が網羅され複雑に絡み合いながらパラレルし進行していく。気が遠くなりそう。だが、既刊の詩集解説本を読んでも難解だった歌詞や、ボウイを信仰する私のような者にとって(冗談)、その偶像を解く鍵になる正に解体新書といっていいかも知れない。鵜呑みなんかしません。が、嫌でも符号してしまうのだ。
家系の歴史は祖父の話から始まり、ライヴエイド(1985年7月)にてHeroesを歌う場面で終わる。
血縁関係は複雑で、精神疾患を持つ人物が多く、DBを悩ませる一番の人物は、異父同母兄テリー。
デヴィッドはテリーが大好きだった。そして、兄の感化を受けた音楽や小説に触発されていく。
同時に、血縁のその血が自分にも流れている事に怯えながら生きてゆくことになる。
精神を患っていた異父同母兄テリーの話を随所に織り交ぜているそれが、読み手を捉える演出で効果的に登場させていると取られ兼ねないような気もする。
音楽業界とは無縁の著者の、ロックライターにも出来兼ねる入念な取材を基に約三年の歳月をかけて書いた変えようも無い事実を鵜呑みにする訳ではないが、やはりテリーの存在は途轍もなく大きい。
それは大きな負担であり、いつしか兄から遠ざかっていった。一番の責任は、母親にあるだろう。最終的に悔やみきれない後悔へ自分を追い込んだのはボウイ自身だろう。兄テリーは、ボウイに会えない事や病院から救い出してくれない事を悲観絶望していたらしい。彼は、1984年12月病院から抜け出し鉄道自殺未遂、そして1985年1月同じ方法で自殺した。ライヴエイド(1985年7月)のボウイの頭、あれは一時的だろうが若干薄くなっている。
デヴィッド・ボウイに暗い影を落としている大きな何かをずっと感じてはいた。兄の鉄道自殺の件は、1993年にリリースされたアルバム”ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ”の解説で知った(タイトルを知った時は、買うもんか!と思ったが結局買ってしまった、腐っても鯛ミタイナ。再婚オノロケ物語。)、神話の裏側を読んだことで、影の原因がハッキリしたのかも知れない。私にはそう思わせる本だ。彼は、重い十字架を背負ってこれからも生きてゆくんじゃないか?。
神話の裏側という本は、ボウイを知る上で欠落していた肝心な情報が書かれていると思う。パズルが解かれた感じ。それは私にとって幸なのか不幸なのか?今は判らない。大げさかな。ま、でも、鵜呑みにしないほうがいいか。DB妄信者は、拒否反応を起こすかも知れないが、Mなら問題無い。真実は彼のみぞ知る、そして神のみぞ知るのだから。God Only Knows !( 因みにわたしは無宗教ピン爆)