ラノッホの丘の放牧地で
11/15(日)レソノサウンドでのDúlarinnライブで演奏を予定している、スコットランドの美しい伝統歌について少し触れます。
スコティッシュガーリックソングの一つで、ここでは敢えて曲名を伏せますが、直訳すると「ラノッホの丘の放牧地で」という風になります。数年前に権藤英美里氏が「これをやってみたい」と持ってきてくれた曲。スコットランド特有の旋律が素晴らしくて、一回し目を聴いただけで好きになりました。そして少し調べてみると、これは僕の大好きなラノッホという場所にちなんだ曲だということがわかりました。かつてスコットランドの西ハイランド鉄道で旅をしてこの地を眺めた時のことは未だに忘れられません。その感動からバイオリン菅野朝子さんとのユニット名は「ラノッホ」になり、数年後にはここを旅の一つの目的地として訪れることになりました。その日については我が日記に残してあり、とても青臭くて恥ずかしい文ながら当時の喜びがいかに大きかったかは伝わってきます。この曲がDúlarinnのレパートリーになったおかげで、演奏するたびにあの風の中に還っているような気がします。英美里氏の歌うスコティッシュガーリックソングはとにかく素晴らしく、千佳氏のフルートも良いのです。ぜひともお伝えしたい一曲であります。もしご興味のある酔狂な方がいらっしゃいましたら、以下にお付き合い下さい(長くて暑苦しいです笑)。
(2015年初夏)
マレイグからコラールまでは来た道を戻る二時間強の旅。自分は相変わらず静かに窓の外を眺めるのみだが、あるボックス席では行きも同じ車両だった四人組がテーブルクロスを広げ、お手製のオードブルを広げてワインで乾杯している。途中のグレンフィナンで蒸気機関車ジャコバイト号とすれ違い、フォート・ウィリアムでスイッチバックし、次第に高度が上がって沿線の木々も少なくなり、再びラノッホムーアまで戻ってきた。コラール駅に到着するちょっと前に車内販売が来たので、サンドイッチを買った。そしてレインコートを着て下車準備をする。コラール駅ではドアは一ヶ所しか開かないので、予め車掌さんにどこから降りるか聞いておいた。ロッホオシアン・ユースホステルを予約した時、折り返しいくつか案内のメールが来て、そこにはとにかく夏でも暖かい服装を用意するよう、また列車から降りそびれないよう注意するよう書かれていたのだ。18時21分、コラー駅に降り立った瞬間、さんざん列車から眺めていたにも関わらず、その周囲の風景の壮大さに圧倒された。この駅で降りたのは自分を含めて二人。もう一人は60歳前後くらいの女性で、「あなたもユースホステルに行くの?」と話しかけてきた。それに答えていたら、今朝グラスゴーからずっとお世話になってきた愛しいディーゼルカーがラノッホムーアの向こうに走り去ってゆく大切な写真を撮りそびれた。
コラールの駅前には建物が一つだけ。それが民宿兼レストランなのだが、懸念していたとおりレストランは営業していなかった。ほかに1マイル(1.6キロ)先のユースホステルまで、店はおろか一軒の家もない。ただただ荒野をゆく一本道が続くのみ。食料を買っておいて良かった。
先ほど話しかけてきた女性はロンドン出身で、年に一度はここに歩きにやって来るのだそうだ。その度にユースホステルに泊まっているのだという。お互い名乗り合ったのだが、大変申し訳ないことにすぐ彼女の名前を忘れてしまった。というのも初めて降り立ったラノッホムーアに圧倒されていたのだ。見渡すかぎりの広い広い空と荒野。聞こえるのは風の音のみで、我々の他には人影もない。ロンドンの女性は目の前に姿を現した湖を指差して「あれがオシアン湖、ここがラノクムーア、あっちの山が…」といろいろ説明してくれたのだが、こちらは自分が本当にラノッホムーアの土を踏んでいること、そこが期待以上の場所であることに静かに興奮し感激し、適当な返事しかできなかった。イングランド人の彼女はラノッホをはっきりラノクと発音した。彼女は足が悪く、それに合わせてかなりゆっくり歩いたが、雨は上がり気温もそんなに低くはなく、ラノッホムーアをわたる風に吹かれながら最高のウォーキングを楽しむことができた。
ユースホステルは日本では若い人のための宿というイメージが強いと思うが、ヨーロッパでは幅広い年代の人々が気軽に利用する。休暇のほとんどをそこでの滞在に費やす人も多い。僕もかつてアイルランドはドニゴールの荒野のユースホステルで、裏の防風林の手入れ(単なる水やり)などする代わりに格安で数週間泊めてもらっていたこともある。ロッホオシアン・ユースホステルはそんな日々を思い出すような宿だった。オシアン湖のほとり、信じられないような絶景の中に佇む山小屋のようなユースホステル。コモンルームに、男女12ベッドずつのドミトリー(大部屋)が一部屋ずつあるのみ。発電は風力、トイレは「ドライトイレット」で、シャワーすらない。コモンルームではオランダ人の青年とイングランド人のおじさんが静かに読書をしていた。彼らに「俺はスコットランドのオシアンというバンドが大好きだから、ここにやってきた」と言ったが、なんと二人とも偉大なオシアンを知らなかった(まあ当然だ…)。しかし彼らも気持ちの良い人たちで、オランダ青年とは彼の葡萄とこちらのチョコレートを少しずつ交換した。夕食は車内販売で買ったサンドイッチ。おかげでマレイグで買ったカップヌードルは翌日の朝食にまわすことができる。
それから少しだけ周囲を散策して、21時前にはベッドに入った。外はまだまだ明るい。蒲団をかけて眠ったが、夜中に何だか冷え込んできたので無人の上段ベッドから蒲団をもう一枚拝借した。アジア人は寒さに弱いから余分に蒲団を与えてやれ、というのはヨーロッパのユースホステルにおける定説のようで、今夜もそれを覆すことはできなかった。
(翌日)
ロッホオシアン・ユースホステルでも朝は4時に起きてしまった。日本時間ではちょうど正午だ。いつの間にか同部屋のベッドで寝ている男どもは8人に増えていた。忍び足でベッドルームからコモンルームに出て、お湯を沸かしカップヌードルを作った。せっかくの憧れのラノッホムーア、オシアン湖での朝食がカップヌードルとは少々残念だ。しかも、日本人の味覚には今イチのカップヌードルだった。窓の外を見ると野生の鹿が三頭、宿の庭にきて何やら物色していた。驚かさないように室内からそっと写真を撮った。
鹿たちがいなくなってから自分も外に出た。すっかり明るいが日差しはなく、フリースにレインコートを着ても寒いので30分ほどで宿に戻った。再び7時くらいに外に出ると、今度は凍えるほどの寒さではない。そこでラノッホムーアを南にしばらく歩いてみることにする。ユースホステルでこの辺りのウォーキング用の地図が売られていて、立派なものだったが8ポンドもする。「これはとても高いからあまりお勧めできないの。時には貴方の命を救うかもしれないけど」とホステルの人に言われた。今回は山登りをする訳でなし、磁石がある訳でもなし、散歩程度のウォーキングで充分なので、結局地図は買わなかった。
ここをどう車が通るのだろうというような、轍のある細い道をのんびり歩いた。ところどろこに小川があり、タイヤが通る部分にだけ簡易的な橋、というか踏み台が設けられていた。踏み固められた道以外は靴が沈みこむような場所ばかりだ。感覚がつかめないほど広い広い荒野、そしてその向こうには雪をかぶったままの山々。ユースホステルはみるみる遠ざかり、やがて丘の向こうに消えた。木もほとんど育たぬ荒野だが、足元には野草が可憐な花を咲かせている。鳥がしきりにさえずり、たまに近くを飛んだりするが、何の鳥だか全然わからない。愛鳥家にとっては天国なのかもしれないけれど、自分には鳥のことはわからず、まるっきり猫に小判だ。
やがて前方に、昨日列車から眺めたあの廃墟が見えてきた。そんなに距離もなさそうなのでそちらを目指すことにする。途中、ゴボゴボと冷たそうな水の流れる小川の手前を右に曲がると金網に覆われた植林があり、その向こうの小高い丘に廃墟はあった。
エミリー・ブロンテ原作『嵐が丘』は時代を超えて何本かの映画になっており、その中でも1992年に封切りになったものは大好きな作品だ。俳優の表情も風景も本当に素晴らしいし、何より坂本龍一教授の音楽、デイビー・スピラーン奏でるロウホイッスルが、ムーアを吹きわたる風そのものだ。そして原作にそんな描写はないのだが、冒頭に作者エミリー・ブロンテ役のシネイド・オコナーが丘の上の朽ち果てた屋敷を訪れ、そのありし日の光景や人間模様を想うシーンがある。こちらは『嵐が丘』に比べればだいぶ小さな廃墟ではあるが、自分も彼女にならい、そこでどんな人たちがどんな暮らしをしていたのか想像しようとした。しかし我が想像力は貧しく、残念ながらあの微笑みのかけらもないような物語は生まれてこなかった。
それからヒースクリフになった気分で荒野をさすらった。このラノッホムーアは『嵐が丘』の舞台ハワースに比べてもずっと人里離れていて、少なくとも自分の周囲数キロに人間の姿はなかった。先ほどと同じグループかはわからないが、三頭の鹿が東から西へしなやかに駆け抜けていった。それからロンドン発フォート・ウィリアム行きの寝台特急(グラスゴーからは普通列車)『カレドニアンスリーパー』が数キロ向こうの鉄路を南から北へ駆け抜けていった。興奮してつい手を振ってしまったが、その後ヒースクリフならそんな軽薄な真似はしないだろうと激しく悔やんだ。
ラノッホムーアを満喫するにはとても足りない時間だが、午前中はずっとそうして荒野をさすらった。そして昼前に宿に戻って絵はがきを何枚か買い、ロッホオシアン・ユースホステルに別れを告げた。そして昨日と同じ道をたどりコラール駅に向かう。後で知ったがこのコラール駅は「ブリテン島で最も人里離れた駅」なのだそうだ。この午後はコラールからオーバンまで再び三時間ほどの鉄道の旅となる。



11/15(日)Dúlarinnワンマンライブ
11/15(日)東京・巣鴨でおよそ二年半ぶりにDúlarinnワンマンライブを開きます。会場のレソノサウンドで演奏させて頂くのは今回が初めてですが、実はこの場所には開業前からご縁があります。十数年前、診療所の跡地として、この建物内に現在のようなスタジオが全く整っていなかった頃、僕は北欧音楽関係の友人に連れられてここを訪れました。その日はオーナーの松岡さんご夫妻と一緒に楽しくお茶をご一緒させて頂きました。一階はまだ診療所の名残りが濃く、医療器具さえ残されているほどでした。その中にもう捨てられるばかりの古びた避難用ヘルメットがありました。「よかったら持って帰って下さい(笑)」という松岡さんのお言葉に、僕は本当にそれを頂いてしまいました。後日Eggman tokyo east(岩本町)でソロ出演した折、「Tunnel Tigers」という曲でこのヘルメットを被って演奏しました。これはアイルランドの労働者たちがロンドンで地下鉄のトンネルを掘っていた頃の哀愁漂う、しかしとてもエネルギッシュな歌です。アイルランド北西部ドニゴールのDungloeにはTunnel Tigersのモニュメントもあります(僕はこの町で目にバードシットを喰らいました)。ちなみにこの曲に出会ったのは2000年、オカロランの墓があるKeadueのハープフェスティバルでショーン・キーン(ドロレス・キーンの弟)がコンサートで歌っているのを聴いた時のことです。
さて、ヘルメットを被ってハープを弾き歌う僕を見て、そのライブの対バンで出ていた権藤英美里氏はなんと好印象を持ってくれたそうです。普通なら敬遠されてもおかしくない振る舞いだったと自分でも思いますが、そんな寛大でノリのいいメンバーのおかげでDúlarinnを始め、11年も続けてくることができました。もしかしたらあのヘルメットがなければこのバンドは生まれなかったかもしれません。それにしても診療所の跡地だったあの建物がこんなに素敵な空間に生まれ変わるとは。Dúlarinn誕生のきっかけを作った(??)レソノサウンドでの演奏、ありったけの感謝の気持ちを込めて、良いコンサートにいたします。ぜひお見届け頂けましたら幸甚です。

北海道巡業2026〜富川編
9/6(日)
ツアー最終日はあっけなくやってきた。朝食、福原さんとの貴重な会話が名残惜しい。夢民村での二日間も本当に豊かな時間だった。奥さんにももう一度お会いしたかったし、チャンスはいくらでもありながらン十年もこの宿に泊まりに来なかったことを深く悔やむ。次は間を空けずに来られますようにと、この旅で何度目かの願いをまた繰り返す。

福原さんに見送られて夢民村を後に、日高道の下をくぐり抜け、競走馬スペシャルウィークを生んだ日高大洋牧場の間を通過し、また国道235号線に出る。いずみ食堂、とねっこの湯、カフェ勇輪と今回の旅で新たなお気に入りとなった場所を次々に通り過ぎ、その度に絵里子さんが手を振る。細やかな気配りや愉快さも兼ね備えた、素晴らしい旅の仲間だ。夢民村からこの日の目的地、富川の複合施設「とみくる」までは20分弱で着く。去年開業したばかりの、体育館や学習室などを備えたとても大きく立派な建物。もしこれが都内にあれば予約の取りづらい人気施設になること間違いないだろう。ただここ日高では稼働率が低いらしく、この日も我々のコンサート以外「ふれあいホール」でのイベントはなかった。自分たちで机や椅子を動かし、我が簡易PAセットやマイクをセッティングし、ステージを作る。

この日も素晴らしい晴天で荷物の搬入時は陽射しがまぶしかった。ふれあいホールは天井が高く、音が良い感じに響く。明るく開放感のある空間。本番開始時、客席に座るのは数名の方のみで、寂しいツアーファイナルになったなあとふと思う。しかし演奏しているうちに通りがかりの方が次々に足を止め、座って聴いて下さった。長年大切に弾き続けている、アイルランドやスコットランドの選りすぐりの美しい旋律、そして自分たちの旋律。今回のツアーは自分の原点に戻ったような選曲。絵里子さんは音も姿勢も本当にプロフェッショナルで、いつでも新しいものを取り入れようとする意欲もある。「サマーダスク」「夜明け方」はじめオリジナル曲、ソロ演奏も毎度素晴らしかった。おかげで良い音楽を各地にお届けできた手応えはあるし、この日もそう。ただ富川では今回のコンサートのような事例がほとんどないためか、使用施設や地元の教育委員会などに全く宣伝協力を頂けなかった。イベントコーナーへのポスター貼り、会場内のチラシ設置すら認められなかった。そのスペースは充分にあるにも関わらず。お集まり下さった方からはご好評を頂いたし、数多の人たちから受け継がれた旋律や思いの詰まった選曲も他にはないものだと自負している。そういったものをお届けし、受け取って下さった方がどんなことを感じたか、そんなことをお互いに語り合い、またお互いを知るきっかけを作ってこその「ふれあいホール」ではないだろうか。ここで地元のコミュニティとうまくつながることができなかったのは悔しく、非常に残念だった。しかしそれも結局は自分の力不足。先方からすれば自分などどこの何者か知る筈もなく、無難優先の立場からしたら仕方のないことなのだろう。ただ、せっかく施設は素晴らしいのだから、もう少し何とかならなかったのかという思いはくすぶる。この日のコンサートにいらして下さった方からも後日、近くの自分の住む地域でもぜひ演奏して下さいと会場をご紹介して頂けたし、そんなご縁をまた育むことができるよう頑張るだけだ。わざわざ岩見沢からキコリンさんご夫妻がいらして下さったのもとても嬉しかった。
終演後は会場近くの萃龍(すいりゅう)というお店で塩ラーメン。地元の人気店らしくピークタイムから外れていてもそこそこ席が埋まっていて、美味しかった。


