アントニオ・フェルナンデス・レボイロ(経歴) | MARYSOL のキューバ映画修行

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先日、キューバ映画ポスターの代表的作家、レボイロ氏の訃報を伝えた際、〈不思議なことにネット上に訃報記事がほとんどない〉と書きましたが、数日後に詳細な記事がひとつ出たので、今回はその記事を基にレボイロ氏の(キューバ時代とポスター作家としての)経歴をまとめてみました。
参照記事:El color vuelto arte gráfico(グラフィックアートになった色) 1月17日

筆者:カルロス・エスピノサ=ドミンゲス 

 

アントニオ・フェルナンデス・レボイロ

    

 

1935年12月26日、カマグェイ県ヌエビータスで、スペイン移民の両親のもとに生まれる。
1954年、ハバナ大学医学部入学
     レボイロ:「当時のスペイン系の家庭では、長男は医者にするのが習慣だった」

   だが彼の天性の資質は別の分野にあり、英語のツァーガイド雑誌「Habana Picture Guide」を創刊。
   ハバナ大学建築デザイン学部に入学。
1960年、リカルド・ポロの助手として国立芸術学校(ENA)建設に参加(デザイン)。

1963年、ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)ポスター部に入所
    「友人を通して、ICAICで新しくポスターデザイン部が創設されると知り応募した」

 

64年から82年までの間に約300点の映画(宣伝用)ポスターをデザイン

 

 ☆アールヌーボー、アールデコ、ポップアート、幾何学的構成主義、サイケデリック・アートなど様々な様式を取り入れつつ、決してマンネリに堕することなく、常に豊かな創造性と想像力を発揮した。
 初期の作品は抑制的で、色彩も白を背景に黒を用いるなどしていたが、68年以降、炸裂する鮮やかな色彩(特に、青・赤・緑・黄)とそのコンビネーションは、眩い芸術性とバロック的な豊潤さを湛えている。

 

 ★彼の描く複雑な画像には、作品の読みや、映画の動き・ダイナミズムを捉えるための視覚的効果や造形的意図が込められており、濃密なコミュニケーションが内包されている。そのため、街行く人は足を止め、深い解読作業へと誘われる。(引用元:CIUDADANO CARTEL)

 

*レボイロのドキュメンタリー作品(3本の作品を監督し、ポスターもデザインした)
1971:Un retablo para Romeo y Julieta
1972:Rumba
   Edipo rey

 

*国際的評価と国内での評価
 1964年、スリランカで開催された国際ポスターショーで「HARAKIRI(邦題:切腹)」が特別賞を受賞。  

         

 

その後もオタワ映画祭で「Premio al Mérito」、カンヌ映画祭で「特別賞」などの賞を受賞したほか、ポンピドー(パリ)やMOMA(NY)のコレクションに入る。

 

 一方、キューバ国内では「ICAICは共産党中央委員会の革命指導委員部が主催するポスター展に毎年私の作品を送ったが、一度も受賞できなかったし、言及さえされなかった。私は常に無視されていた。レネ・ポルトカレロ(キューバを代表する画家のひとり)がハバナ大学で『レボイロはキューバの色だ』と言ったことが原因でひどく非難されたこともあった」。

 

1982年、カンヌ映画祭でレボイロのポスター展が開催されることになり、フランスに招待される。

しばらくフランスに滞在後、スペインに定住し、ポスター・デザインの仕事を続ける。

映画ポスターのデザインは2点のみ。スペイン映画『La Corte de Faraón』と、ネストール・アルメンドロス&ホルヘ・ウジョアが共同監督したドキュメンタリー『Nadie escuchaba(英語タイトル:Nobody listened)』 

           

 

1998年、マイアミにアトリエを建て、個人的な仕事に専念する傍ら、ウェブデザインを請け負う。
2006年にマリリン・モンロー出演作に関するポスター、翌2007年にフェリーニのフィルモグラフィに関するポスターを、アントニオ・ガルシア=ラヨ(スペイン)の依頼を受けてデザイン。

2010年以降は、絵画制作に専念。
「グラフィックデザインという主要な仕事の合間に、私はいつも小さな絵を描いていた。依頼主の趣味や注文とは関係なく。花々や数字は私のお気に入りのテーマだ。ベニート・ペレス・ガルドスが『花は地上の星だ』と言ったように、私はこれらの花を両親や愛する人たちに捧げる。数字は、私にとって常に魅惑と神秘の源だ」

 

2020年1月7日
晩年を過ごしたマドリード郊外のAlcorcón村で逝去。

質・量(1000点以上)共にキューバのポスター界に記念碑的な功績を残した。
彼の死は、キューバにとって文化的損失である。

 

筆者の記事の最後は、4人の友人の献辞で締めくくられている:ニコ(ICAIC 時代の仲間、ポスター作家)、フェルナンド・ペレス(映画監督)、アントニオ・ガルシア=ラヨ(スペイン)、ウンベルト・ペニャ(画家・グラフィックデザイナー)