デスノエス・インタビュービデオ③(Oncuba) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

前々回前回と続き、これで最終回。

 

ビデオ・パートⅣ

 

『低開発の記憶』撮影風景/アレア監督の言葉

 

私にとってこの映画を理解する手掛かり、本質は、セルヒオが次のように言うところだ。

「我々が今だに住み続けている低開発の社会では、人々は常に自分に代わって考えてくれる誰かを必要としている

私にとって、これこそ解決すべき問題だ。

市民一人一人が自分の頭で考える。それが実現した日、この映画は古びる。

だが私は心から嬉しく思うだろう。映画が本当に古びて、あの葛藤のとき、困難な時代の単なる証言と化すことを。

 

小説の時代と今のキューバはどれほど隔たりがあるか?

キューバに住んでいない私には答えられないが、私に送られてくるメールや聞いた話からすると、今も彼らを代弁している。よって不毛な過去になっていない。ファン・ラモン・ヒメネスは「古典は生きている」と言ったが、『メモリアス(低開発の記憶)』は小説も映画も生きている。

 

映画シーン/セルヒオのモノローグ

「私が戸惑うのは人々の気分や意見がころころ変わることだ。エレナは無定見そのもの。オルテガいわく変容(alteración)そのものか。ものごとを関連づけない。低開発(後進性)のしるしだ。経験を積み重ね、発展させていく能力の欠如」。

「感情と文化で培われた女性はここでは生まれにくい。環境が軟弱すぎる。キューバ人の才能はすべてその場の対応に費やされる。一貫性がない。そして常に自分に代わって考えてくれる誰かを必要としている」。

 

50周年を迎える映画『低開発の記憶』

キューバは低開発(後進性)との闘いに勝ったか?

ノー!(笑) それは永遠の断罪だ。だが我々は努力した。革命は大きな約束、夢だった。

ボルヘスは「敗北には騒々しい勝利には及ばない威厳がある」と言った。我々は何か偉大なものを成し遂げようとして失敗したことを祝わねばならない。

 

以下、ビデオにはないが、Oncubaの記事から訳出

キューバの実存の中心、それは音楽だったし、現在に生きている。そして革命は未来のために自己犠牲を求めた。今を生きるキューバ人の要素、未来のための犠牲の要請、あげくの果てに、それらの犠牲が経済的豊かさをもたらさなかったとなれば、歌って踊っている方が好いと考える。キューバ人は何か真剣(深刻)になると、誰かが冗談を言い、緊張をほぐす。キューバ人は常に緊張を破り、バランスを取り戻す。そうやって対立を避ける。

 

いかに低開発(後進性)から脱するか?

悲観主義者にはなりたくないが、キューバやラテンアメリカについて言えば、別の文化を創造せねばならないだろう。経済的な意味の低開発なら、実質的に抜け出すのは不可能だ。ビジネスのメンタリティがないからだ。金銭、財政、利益などの抽象的観点から考えない。

トクヴィルは『アメリカにおけるデモクラシーについて』で、「イスパノアメリカとアングロアメリカの対立は永続するだろう」と指摘した。

 

『低開発の記憶』は、ミサイル危機というキューバと米国の関係の危機で終わる。

2014年12月17日、両国の政治的関係の変化が発表されたとき、どう感じたか? 

私はここ(N.Y.)にいて、キューバにいなかったが、和解の偉大な機会だった。

オルテガのこんな言葉がある。「身体と身体の取っ組み合いほど抱擁に似たものはない」。

キューバと米国は、抱擁であり闘いだ。我々にはその両面がある。

あのとき相互の関係が増幅する好機が開けた。

ここには何百万ものキューバ人、あらゆる世代がいるが、2つのグループが統合されれば、さらにパワフルな国と文化ができるだろう。対立などネガティブなことにならなければ。

 

拙ブログ参考記事:

キューバにおける映画『低開発の記憶』の影響やオマージュ

https://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12200573106.html