前稿の続き、昨晩のトークイベント内容報告です。
◎ キューバ映画の特徴
批評精神(主体性)を養い、受動的な観客から能動的な観客へと変えることを意図。
社会主義リアリズム(英雄讃歌、教条主義)を嫌い、庶民の視点で社会を描く。
ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)には他の組織よりも自由があった。
(初代長官アルフレド・ゲバラとフィデル・カストロは大学時代からの同志)
◎ トマス・グティエレス・アレア監督が『低開発の記憶』に込めた思い
私にとり、もしあの映画に何か価値があるとしたら、それは観客を不安にさせる点だ。
映画は、終わったあと、観客の頭の中で動き始める。
映画館を出たあと、観客は自分自身や現実と正面からも向き合わされる。
しかもその現実は、矛盾や未解決の問題を抱えている。
なぜか?それは、我々がまだプロセスの途中にいるからだ。プロセスは完結しておらず、道中にいる我々は、理想の社会へと一歩一歩近づきつつある。
私にとってこの映画を理解する手掛かり、本質は、セルヒオが次のように言うところだ。
「我々が今だに住み続けている低開発の社会では、人々は自分に代わって考えてくれる誰かを必要としている」私にとって、これこそ解決すべき問題だ。
市民一人一人が自分の頭で考える。それが実現した日、この映画は古びる。
だが私は心から嬉しく思うだろう。
映画が本当に古びて、あの葛藤のとき、困難な時代の単なる証言と化すことを。
◎ 『低開発の記憶』の影響・オマージュ
☆カルロス・バレーラ:MEMORIAS (1988年ごろの歌)
歌詞の内容は拙ブログで:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-11350113920.html
☆ 映画『NADA(ナダ=ナッシング)』 のワンシーン (2001年)
https://www.youtube.com/watch?v=acJ1jriiE4s
☆ 男性デュオ「ブエナ・フェ」のPV:Soy lo que ves 2008年
1分45秒~ & ラスト近くに流れる声は『低開発の記憶』のセルヒオのモノローグ
☆ ブエナ・フェ(イスラエル&ジョエル)のキューバ映画に捧げるコンサート(2011年9月)
http://www.facebook.com/photo.php?v=3466413749772#!/photo.php?v=3466413749772
トマス・グティエレス・アレア監督: 「人々は、自分に代わって誰かが考えてくれることを必要としている。 これこそが解決すべき問題だ。市民各自が自分で考えねば」
4:05 ~:「僕にとってデスノエスとティトン(アレア監督の愛称)の『低開発の記憶』ほど自分を熱くする映画はない。今もティトンの考えは有効だと信じている」 (イスラエル談)
☆ 「ロス・バンバン」のPV (2011年ごろ?)
望遠鏡に映る景色が製作者の意図や時代を反映
拙ブログ紹介記事:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12010981364.html
☆ 『ゾンビ革命 ファン・オブ・ザ・デッド』のワンシーン (2011年)
闇商売で生き延びる凸凹コンビ
トークイベントを終えて
限られた時間でしたが、『低開発の記憶』が激動の60年代キューバを内側から深く捉えた貴重な作品であること、各シーンやセリフに重層的な意味があること、監督の指摘が半世紀の時を超えて(皮肉にも)有効であること、とりわけキューバの若いアーティストが共感していることが少しでも伝わったなら、個人的には満足です。
「ボデギータ」の史郎さんは、60年代キューバで少年時代を過ごしているうえ、今に至るまでキューバを自国同然に語れる、希少な日本人(いや、キューバ人?)なので、そのコメントや準備段階でのご指摘に新たなヒントをもらいました。
そのすべてについて言及できなかっったことは残念ですが、またの機会にぜひ。
受動的観客から能動的観客へ。気が付いたら、私自身がその“実例”でした!!
ちなみに、外国のアーティストにもインスピレーションを与えています。
拙ブログ記事参照:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10170970544.html
紹介しそびれましたが、『セルヒオの手記~ユートピアからの亡命』という21世紀版も。
詳細はこちら。