現代アートとしての『低開発の記憶』 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

今日の日経朝刊の読書欄で「グルジア映画への旅」の著者、はらだたけひで氏が「1本の映画が人生を変えるということを、特に若い人に伝えたい。映画はそれほど大きなものだと思う」と言っておられるが、私の〈その1本〉は、キューバ映画『低開発の記憶』だ。

 

 

おかげでキューバに通いながら(少なくとも)15年以上考え続け、「もうこの映画からは吸収し尽くした」気になっていたのに、昨日また新たな気付き!があった。 明日、「1984」を観劇しながら確認しよう。

 

さて、同じ読書欄の「現代アートとは何か」(小崎哲哉著)の書評には、《現代アートは、もはや『美』を志向していない。それは知性を刺激する《よいアートは答えを与えてくれない。それは問いを投げかける》とあったが、その言葉にも『低開発の記憶(後進性の手記)』が重なる。

ちなみに原作者、エドムンド・デスノエスは「西欧世界では、進歩は疑問から始まる」と言っていた。

疑問を抱くことは、自律的思考の第一歩なのだ。

 

また、小崎氏は《自由な知的冒険が社会にもたらす可能性の大切さ》も訴えているそうだ。

キューバの場合、残念ながら70年代に入ると、規制やイデオロギー色が強まり、全体的に文化の勢いが削がれてしまう。

映画『低開発の記憶』は、(革命の範囲内で)キューバの独自性を追求し、知的冒険ができた時代を象徴している。

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