救われた映画の記憶(2) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

前回のマリアン・ガルシア監督へのインタビュー 紹介後、出かけていたため、続きのアップが遅れました。


きょうは,2つ目の質問と回答を紹介します。

*元の記事は1月2日付Juventud Rebelde新聞


質問2:
唯一の日本との合作映画(注:『キューバの恋人』 黒木和雄監督/1969年)をめぐる試みはどのようなものでしたか?


マリアン・ガルシア監督MARYSOL のキューバ映画修行-マリアン・ガルシア監督
キューバ映画は、1968年の時点ですでに(合作よりも)自前の製作を主眼としていました。悪化し始めた経済は、映画にも影響を及ぼしていました。実際この頃になると、合作や共同制作は僅かでした。黒木監督はそのような時期にキューバに来たのです。


当時の黒木監督は、ドキュメンタリー映画の経験こそ積んでいたものの、長編フィクションは1本だけでした。その初の長編『とべない沈黙』はキューバで上映され、(アニトニオ・レボイロのポスターを含め)前衛的スタイルがシネフィル達に受けました。けれども日本の事情は違っていました。公開が遅れ、製作会社の間では実験的映画監督と決めつけられました。
ラウル・タラドリとフリオ・ガルシア・エスピノサが、日本映画の上映プログラム充実のため日本を訪れます(訳者注:1967年)。その成果として『とべない沈黙』がキューバで上映されるわけですが、このとき初めて黒木監督がキューバで映画を撮る可能性が話題に出たのです。


黒木監督は自主製作の形でキューバを訪問し、極めて小規模なチーム(日本人8人とほぼ同数のキューバ人という編成)で撮映を行いました。最初から日本の大手映画会社の周縁で製作する計画でした。さらに上映委員会を立ち上げ、自主配給を目指しました。
キューバでの撮影は、小規模製作という制約ゆえに、とにかく状況に適応し、困難を乗り越え、撮影を進めることが最優先されました。演出は最小限、ロケ地の準備もごく僅か、フリーシネマの手法で進行しました。



参考記事:
マリアン・ガルシア監督のドキュメンタリー『アキラの恋人』について:
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-11123266562.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10686115460.html


お知らせ
『アキラの恋人』日本語字幕付きDVD(56分)の入手方法については、近々拙ブログを通してご案内する予定ですので、もうしばらくお待ちください。