キューバの新聞に監督インタビュー掲載! | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

昨晩マリアン監督から、キューバの新聞「Juventud Rebelde」に、彼女のインタビュー記事が大きく掲載されたとの報告がありました。
以下のURLでデジタル版が見られます。(スペイン語)

今回はとりあえず最初の質問と回答まで紹介します。

カタログや製作記録からも抜け落ちていた幻の映画-しかも日本人監督とキューバの最初にして唯一の合作―をよみがえらせるべく、マリアン・ガルシア監督はデビュー作に「アキラの恋人」 を製作した。同作品は、日本文化週間で上映された後、新ラテンアメリカ国際映画祭のキューバ製作部門に出品された。

質問1
「キューバの恋人」 の製作経緯を明らかにすることは、初期のICAIC(映画芸術産業庁)に迫ることでもありましたが、どうして2本の平行線をたどることにしたのですか?

MARYSOL のキューバ映画修行-マリアン・ガルシア監督マリアン・ガルシア監督
『キューバの恋人』が撮影された1968年は、キューバ映画にとって極めて重要な年でした。
それ以前にも優れたフィクションは製作されていましたが、68年と翌69年、キューバ映画に最も思い出深い古典的名作がもたらされたという点で専門家の意見は一致しています。すなわち、『低開発の記憶』(トマス・グティエレス・アレア/1968年)、『ルシア』(ウンベルト・ソラス/1968)、『マチェテの戦い』 (マヌエル・オクタビオ・ゴメス/1969)です。

『キューバの恋人』を再構築するうち、この時代がいかに重要で映画の実現化にどれだけ決定的だったか明らかになりました。ドキュメンタリーの視点から観て、この歴史的背景を加えることは、『キューバの恋人』を理解する上で補足的な価値になると思いました。

こうした理由から、『アキラの恋人』を構成する数々の証言は、基本的に二つのグループに分けられます。ひとつは、主役の日本人俳優と共に直接撮影に関わった人たち。もうひとつは、映画編集者のネルソン・ロドリゲスや、映画評論家のルシアノ・カスティーリョ、それに監督のマヌエル・ペレスやトマス・ピアードのような人たちで、彼らの分析や評価や思い出を通して、より歴史的な側面が加味されました。部分的に両グループがクロスしている場合もあります。なぜなら、黒木監督を直接知っていたり、間接的に映画と関わった人もいたからです。