カルロス・フランキ逝去 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。


MARYSOL のキューバ映画修行-カルロス・フランキ シエラ・マエストラにおける反乱軍基地に“ラジオ・レベルデ”や“レボルシオン”紙という、情報戦の要を築き、革命を成功へと導いた立役者でありながら、後に革命政府と決裂し、亡命生活を送ったカルロス・フランキ(1921年12月4日生まれ/作家・ジャーナリスト)が、16日、プエルト・リコで亡くなりました。享年89歳。

 

(写真は、あの「PM」の製作者、オルランド・ヒメネス・レアル撮影)

 

フランキについて私はよく知りませんが、もっと知るべき人物であると思っています。
というのも、彼こそ革命前後のキューバ文化に大きな影響を及ぼした人物だからです。

 


―まず、ICAICの前身と言えるNuestro Tiempo(我らの時代)という文化団体(PSP系)の創設者メンバー。


―反バチスタ闘争中は、レボルシオン紙(非合法新聞)を創刊し、革命後の1963年まで編集長を務めた。


―革命後、レボルシオン紙の文化特集版「ルネス」に、故ギジェルモ・カブレラ・インファンテ(作家)を編集長に据え、当時のラテンアメリカでも最先端を行く、充実した紙面で、キューバ文化の進展を促した。

*「ルネス」の廃刊は、かの「PM事件」と密接に関係している
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10108134812.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10121316872.html

 

フランキの言葉:「(革命が成就した後)フィデルから司令官(コマンダンテ)や大臣への就任を打診されたが、断った。なぜなら、私がやりたかったのは、官僚的革命ではなく文化的革命だったからだ。キューバと革命を世界に向けて発信したかったのだ」。

 


―“レボルシオン”廃刊後は、渡欧し、文化活動に奔走。1967年に「サロン・ド・パリ (パリ芸術協会公式展覧会)をハバナで開催。ピカソ、エルンスト、カルダーを始めとする現代美術作家を紹介すると同時に、ウィルフレド・ラム、ホルヘ・カマチョ、フェルナンド・ルイスなどキューバの現代美術も合わせて紹介し、画期的なイベントとなった。
この企画は、革命後のキューバ文化の“社会主義的傾向”に対するアンチテーゼだった。

 

1968年、ソ連のチェコスロバキア介入に抗議。
それがきっかけで、フランキとフィデルの決裂は決定的となる。
亡命後、イタリアに居を構えていたが、91年にプエルト・リコに移住した。

 

 

「文化は自由であるべきだ。しかし、キューバ革命はその自由を否定した」。

 

(フランキの言葉)


参照記事:
http://www.diariodecuba.net/cuba/81-cuba/1217-mirio-el-escritor-y-periodista-carlos-franqui.html


主な著書:
El libro de los doce
Diario de la revolución cubana
Cuba, la revolución: mito o realidad
Retrato de familia con Fidel
Memorias de un fantasma socialista

 

履歴の補足 (2017年6月20日)

 

ラス・ビーリャス州の貧農の息子。
ハバナへ出て、青年期にシュールレアリスティックな詩を発表した。独学者。
1944年ごろキューバの共産主義政党PSP(人民社会党)に加入、党の日刊紙「オイ」の、最初は雑報欄を、後に政治欄を編集するようになるが、党との関係がこじれて(一説によると、彼の反抗的な性格が原因でアニバル・エスカランテの怒りを買い)、1947年に党から除名された。


フィデル・カストロとの交友は、モンカダ襲撃(1953年)より以前にさかのぼり、共にドミニカ共和国のトルヒーリョ政権打倒のための遠征(1947年)に参加するも失敗に終わる。しかしながら革命活動を続け、50年代キューバにおける前衛運動の中心人物となる。
反バチスタ闘争が始まると、ハバナで地下新聞の組織者として頭角を現し、その後しばらくコスタリカに亡命しながら活動を続けた後、1957年末にシエラ・マエストラに行く。そこで彼は、ラジオ・レベルデ(反乱放送)を指導するなど、カストロ派の宣伝活動全般を実質的に指揮した。7月26日運動の機関紙「レボルシオン」も彼が創設した。同新聞は1959年1月以降、キューバ有数の日刊紙となる。


1963年、ヨーロッパと中国を訪問。その際、新聞には一時的な主筆がおかれたが、結局1964年に「オイ」と合併し「グランマ」となると、フランキは大統領の管轄下の歴史文庫の指導を引き受けることを承認。キューバ革命の歴史記述者となり、カストロ派の抵抗運動に関する最も優れた記録集「十二人の記録」(仏訳、パリ、1967年)を出版。これは、ゲリラやキューバ革命家の生活に関する情報の宝庫となっている。


           消されたフランキ
            消去されたフランキの画像(右中央)

 

追記:2020年5月2日

カルロス・フランキについては、改めてこちらにまとめ直しました。