『PM』上映禁止事件 (3) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

きょうはキューバの映画研究者J.A.ガルシア・ボレロ(在スペイン)の考察を通し「ルネス」対「ICAIC」の因縁から「PM事件」を見てみることにします。
私にとって、前回までの考察がこれまでの「定説」であったのに対し、今回の視点はほとんど未知のもの。しかも両者の因縁は革命前の1950年前後にまで遡るので、なかなかヤヤコシイ… 上手く説明できるかわかりませんが、自分の頭を整理するために書きます。


1)ICAICの前身「ヌエストロ・ティエンポ」(PSP系文化団体)
ハバナ大学で出会い、共にコロンビアで「ボゴタッソ(1948年に起きた政治的大暴動事件)」に遭遇し、反バチスタ闘争を通じてフィデル・カストロと盟友関係を築いたA.ゲバラ(アルフレド・ゲバラを指す)は、革命勝利の直後フィデル本人から参謀役の一人に選ばれる。
3ヵ月半後ICAICが設立され、A.ゲバラは初代総裁に、ギジェルモ・カブレラ・インファンテとトマス・グティエレス・アレアは顧問に任命され、A.ゲバラやT.G.アレアが所属していたPSP(人民社会党)系の文化団体「ヌエストロ・ティエンポ」の仲間が主な構成員を占める。
A.ゲバラ関連記事http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10070212244.html
ICAIC設立の関連記事:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10068815587.html


2)「ヌエストロ・ティエンポ」映画部
1951年カルロス・フランキの発案で「ヌエストロ・ティエンポ」に映画部が創設されると、それまでヘルマン・プイグとリカルド・ビゴンが設立した「シネクラブ」の仲間だったG.C.インファンテやT.G.アレアは前者の活動に参加。
「シネクラブ」がイデオロギーとは無縁の作品を上映していたのに対し、「ヌエストロ・ティエンポ」の映画部は「社会悪を告発する、イデオロギー色の強い作品」を上映するなど、PSPの意向を反映していた。また1953年11月には「イタリア映画週間」を開催し、チェーザレ・サバッティーニらを招聘した。
1955年にはA.ゲバラ、T.G.アレア、フリオ・ガルシア・エスピノサらが(セミ)ドキュメンタリー『エル・メガノ』を製作。この作品は後に「ICAIC」のルーツと見なされる。
アレアやエスピノーサが1951年から53年にかけてローマで映画を学んだこともあり、ICAICは当初「ネオレアリズモ」を信奉した。
*PM事件の火種は、古くは「シネクラブ」と「ヌエストロ・ティエンポ」の対立という形ですでにこの時点で生まれていた。
*「シネクラブ」関連記事
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10071770334.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10075512413.html


3)「ルネス(デ・レボルシオン)」
一方「ルネス・デ・レボルシオン」は革命闘争を担った「7月26日運動」の機関紙が起源の新聞「レボルシオン」の月曜版(文化特集版)で、その第一号はICAIC設立法が発効する前日(1959年3月23日)に刊行された。
発案者は「レボルシオン」紙の編集長カルロス・フランキだが、「ルネス」の編集長はギジェルモ・カブレラ・インファンテが務めた。
「ルネス」の基本姿勢はG.C.インファンテの次の言葉に示されている。
「我々は文学的にも芸術的にもグループを形成してはいない。むしろ同年代の友人同士という関係である。特定の政治思想もない。ただし現実へのアプローチ・システムを拒むものではない」「そのシステムとは、唯物史観的弁証法、あるいは精神分析、もしくは実存主義を指す」

こうして表現の場を求めていた作家たちが集まり、「ルネス」はジャンルや思想、地域にこだわらず、多様な文化情報をキューバ国民に提供した。「ルネス」が目指したことは、キューバ文化の牽引役となることで、その姿勢は開放的だった。


以下はK.S.カロル『カストロの道』からの引用
【「ルネス」に《路線》がなかったというのは正しくない。これは、商業化された文化に対する異議申し立ての雑誌であり、さらには、キューバでよく知られていない左翼系の著作を普及するための、強力な道具でもあった。同誌はまた、キューバ革命自体に関する歴史的知識の深化にも力をつくし、フィデル・カストロ、エルネスト・チェ・ゲバラ、カミロ・シエンフエゴスなどの最も重要な著作をいくつか発表した】【すべてのキューバの指導者は、この雑誌が、知識欲に燃えていて、自ら物事を判断する力を持っている新しい世代の、ある種の要求に応えていることを認めていた。】【外国からの旅行者にとっては、「ルネス」の発行部数が大きな驚きの種だった。それは、日刊の「レボルシオン」とまったく同数で、25万部に達していたのである。読者の間でなされた調査によれば、日刊紙の読者も、その文化特集版である「ルネス」を注意深く読んでいることが明らかにされている。サルトルとシモーヌ・ボーヴォワールは、驚嘆の意を明らかにしながら、キューバ国内のほうぼうで人々と話し合った際、多くのさして教養のないキューバ人が、「ルネス」のおかげで、ピカソとかヨーロッパの前衛芸術家などについて、多くのフランス人よりもよく知っていることが分かった、と言っている】【ところがまさにこうした長所が「ルネス」の上に正統派の怒りを引き寄せたのである。】


4)「ネオレアリズモ」と「ニューウェーブ」
ICAICの作品は文化的というよりも、むしろ教育・宣伝が主眼で、表現は「ネオレアリズモ」を継承していた。一方「ルネス」は「ネオレアリズモ」を“すでに時代遅れ”と見なし、今やイギリスの「フリーシネマ」、フランスの「ヌーベルヴァーグ」、さらには上質であればハリウッドの作品さえも支持した。

【1961年2月6日“「ルネス」映画に行く(Lunes va al cine)”という特集号が出る。同号は二部構成で、一部は「ネオレアリズムとフリーシネマについて」、二部は映画のエロチックな伝統やハリウッド映画について書かれており、『PM』に関連する内容もあった。これは当時の状況から見て明らかにICAICと、とりわけPSP保守派に対する挑戦だった。
尚、同号にはICAICのメンバー(ファウスト・カネル、ネストール・アルメンドロス:スペイン映画について執筆)も加わっていた。】 (ウィリアム・ルイス)


―次回に続く―