ICAICのルーツ | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

いよいよ初代ICAIC総裁アルフレド・ゲバラの登場です。
日本ではほとんど無名の存在ですが、革命後キューバの映画および文化を

語るうえで非常に重要な人物!

フィデルとは大学時代からの強い絆で結ばれています。たぶん1925年生まれ。


きょうご紹介するのは、あるインタビュー記事からの抜粋(時期は不明)ですが、
ICAIC製作映画のルーツに触れることができると思います。


★ 映画との出会い
もともとは哲学や文学が好きだったのだが、映画に関しては当時の若者の常で西部劇の大ファンだった。映画館でスナックをほおばりながら、ヤンキーの侵略に抵抗するインディアンが殺されるのを喚声をあげながら観ていたものさ。

その頃はまだインディアンがわれわれ自身であることに気づいてなかったんだ。


アメリカ製のコメディも大笑いしながら観ていたよ。
クラーク・ゲーブル、イングリッド・バーグマン、ロバート・テイラー、グレタ・ガルボ、ジョン・クロフォード等は、当時の私にとって洗練と精神性の手本だった。

今思えば、まったく催眠状態にあったわけだ。


ところがその頃、大学である教授の映画鑑賞セミナーを受けて気づいた。あの種の魅力は、鑑賞者の人生も映画同様に陳腐で遊戯めいていればこそ楽しめること、だが本物の映画は別物で、芸術であり得るということに。


ギリシャ悲劇の教授からも大きな影響を受けたよ。悲劇の奥底に分け入り、

そのドラマツルギーや哲学的様相に迫ることによって決定的な影響を受けた。それは自分たちの文化、アイデンティティ、宇宙での位置づけに迫ることだったんだ。


こうして映画は我々にとって単に楽しく面白おかしい見世物以上の存在になった。それは精神を表現する手段であり、作品は芸術だった。


★チェーザレ・ザパッティーニとの出会い
その頃キューバを訪れたザバッティーニと知り合った。
当時の私たちは、映画やギリシャ悲劇、ロルカの演劇、ブローウェルのギター、ファン・ブランコの大胆さ, カブレラ・モレーノの初期絵画、レサマ、ギジェン、ファン・ラモン、マヤコフスキー、マラルメらの詩、イタリアのネオレアリズモ、仏のヌーベル・ヴァーグ、実存主義、シュールレアリズムなどに魅了される若者集団だった。


ザパッティーニとの出会いは不思議な典礼のようだった。
私たちはいかに統合すべきか彼に助言を求めたのだが、彼が身をもって示したのは統合ではなく、現実に対して天使と悪魔の両面からアプローチすること、もう一度子供の目で現実を見直すこと、現実の鮮度や熱を逃さず、それを素早く捉えることだった。


彼はまるで堕天使みたいだった。
決して植民者的な態度をとらず、私たち若者の中からキューバに映画が生まれる可能性を見ていた。そのために常に自分たち自身であり続けるよう、私たちに説いた。
自分たち自身であること。我々はそれを欲してきたし、常にそうありたい。


★好きな映画監督は?
年のせいか、興味のある映画監督は、レネ、ビスコンティ、フェリーニ、パゾリーニ、グラウベル,タルコフスキー、ベルトリッチ、ゴダール、グリナウェイ、ベルグマン、デ・シーカ、ミハイルコフ


★亡命
バティスタ独裁政権はあらゆる手段を講じて学生運動を弾圧したが、モンカダ兵営襲撃はそれに拍車をかけた。兵営は血の海だった。それを見て私は、独裁に終止符を打つには武力に訴えるしかないと悟った。
だが、まもなく私は逮捕され、学生連盟(FEU)の仲間たちとプリンシペ刑務所に入れられた。裁判で「私はフィデルや祖国の殉教者と連帯する」と宣言した。


釈放後キューバを出ることにした。ジャマイカからベリーズに渡り、メキシコにたどり着いた。そこでフィデルが残したPedro Miretの指揮下に入ったのだが、やがて彼はシエラ・マエストラに旅立つ。私は仲間と別の遠征を企てた。これには元メキシコ大統領、ラサロ・カルデナル将軍が個人的に援助してくれた。


★メキシコでの収穫
メキシコでは高名な映画プロデューサー、マヌエル・バルバチャーノ・ポンセとその兄弟のホルヘが私を保護してくれた。バルバチャーノは、自分の仕事を手伝うチームを作ったのだが、メンバーは、カルロス・フェンテス、ガルシア・アスコット、それにの3人だった。チームはブニュエルが製作する『ナサリン』 『プロビデンシア通りの漂流者たち(後の『皆殺しの天使』の原案の一部?)』に参加することになっていた。
そして私は『ナサリン』の撮影でブニュエルに採用され、間近で働くことができた。
このときセットで、敬愛するガブリエル・フィゲロア(撮影監督)と再会し、スペイン共和国時代ニュース映画を製作していたカルロス・ベロにも助けられた。


こうして図らずもメキシコ時代は短いながらも映画について多くを学び、経験を積む貴重な時代となった。また、このとき得たビジョンがICAIC構想の基本となった。つまり、ICAICは精神的な領域であり、技術基盤の中心となる、ということだ。そこから映画が産まれるやもしれないと― 
果たして映画は産まれた。キューバの映画、ラテンアメリカの映画であるべくして産まれたのだ。

アルフレド・ゲバラとブニュエル
             ブニュエル(中央)とアルフレド・ゲバラ(左)