私たちは今の貨幣による経済システムの中で、教育を受け社会に出て生かされてきた。
今の生活ができるのも、この経済システムを創った金融資本家、別名世界の支配者のおかげである。
お金が物に対する価値を持っているため、そのままでは何の使い道のないお金を生きるための財産としている。
今の経済システムに感謝している。
ほとんどの生活インフラが整い、多くの幸せを感じることができた。
しかし、金融資本家には元々大きな野望があり、その野望を実現するための計画が最近は顕著になっているのだろう。
今までの価値観の終焉。ひょっとすると、今までの文明をリセットして新たな文明に移行することが野望であるかもしれない。
それは世界統一政府として、国境をなくし、全世界の市民を監視、管理していくことなのかもしれない。
それを実現するためには、今の世界人口は多すぎるのだろう。
あるいは特定の性質を持つ市民だけが生き残るようにして、世界人口を調整しているのかもしれない。
誰しも早死にしたくはないので、身の安全を守るために必死になっているところである。
人それぞれ思考は異なるので、どのように対応しているかは千差万別である。
ある意味我々は、今まで育ててもらった、あるいは育ててもらっている親から、これ以上の面倒は見ることができないと言われている子供のようなものである。
それが例えば、早死にするためのことを勧められているといったことであるかもしれない。
我々は自分の親に対して単純に恨みを持つべきなのだろうか。
親には、野望以外のもっと深い事情があると推察することもできないだろうか。
だからと言って親から言われるままに、勧められることを素直に受け入れるということも違うだろう。
子供には子供の考え方がある。
素直に受け入れることが単に自殺行為になる可能性もある。
親の考え方にも理解を示しつつ、子供としての自分の考え方もしっかりと持つ必要があると感じる。
世界が大きく転換するときであるからこそ、親が、子供一人ひとりに考える余地、選択する余地を与えているのが現状であると思う。
死を恐れて、懐疑的に、反抗的に生きることは人生をつまらなくする。
我々はつまらない人生を送りたい訳ではない。
恐れの感情を愛の感情に変えるためには、親の考え方も受け入れ、死も受け入れる覚悟で日々感謝の気持ちで生きることが必要であると思う。
親も子供も誰しもが目的や目標を実現したくて生きているのだから。
そもそも我々はまともな人間として機能していなければ、まともな人間として生きたことなど、ほとんどないということにも気づくべきである。
親から与えられた社会環境下で進路を選択し、暗黙または明示された社会のルールに従って日々を過ごしている。
自分が何であるかもわからず、まともに存在していないことにも気づかず、幻想的なホログラム世界を現実と捉えて生きている勘違い人間であることにも気づくべきである。
どう生きたいかは自分で考えればよいが、死を恐れて愛の感情を手放すことは、本来の人間の姿とは違ったバイオロボに近づこうとする行為になるのではないか。
死を受け入れつつ、この地球という場に感謝を持って生きていこうではないか。