世界が2つに分かれて、この地球の行方を決定する最終決戦に入ろうとしている。

多くの人が戦場に駆り出されて自爆するかのように見える。

人類の管理を容易にするために人口を減らす意図であったり、人類の財産を回収する意図であったり、変わりゆく地球に適応できる人類を残す意図であったり、様々な意図が見え隠れする。

一般的には、人類を苦しめる悪い意図しかないように思えるが、視点を上昇させてみると、物質的な顕在世界から霊的な潜在世界へ移行する意図があるように思える。

顕在世界から脱却できない人類には、人工知能による脳の管理が推奨され、潜在世界へ移行しようとする人類には、身体を解放させて霊としての魂に戻ることが推奨されているように思える。

いずれにしても現状のまま生きていくことは推奨されないのは確かだろう。

それにも拘わらず、経済的に頑張って現状を維持しようと努める人類が多いことは言うまでもない。

経済的に立ち行かなくなって、すべてを投げ出さざるを得なくなる人類も相当増えていくだろう。

人類がこの顕在世界で生きていくためには、少なくとも自分と家族の衣食住を確保できる経済力が必要とされる。

しかし、経済的に破綻しようとしている世界の現状において、この経済力を維持することは困難である。

そうであるならば、経済力を超えた霊力とでもいうべき精神力を獲得できない限り、霊的な意味も含めた人類の生き残りは不可能に思える。

よく陰謀論として言われる、財産の偏りを拡大し世界の支配を完全なものにするために、人類の弱体化を狙った経済破綻を起こす計画が進行しているといった捉え方があるが、それではあまりに表面的過ぎて薄っぺらい。

悪魔と神が渾然一体となった計画であるならば、人類の理性的な脳を超えた、人類の根源的な魂の共鳴が求められていると捉える方が健全である。

地球の表層に残る未浄化霊があまりに多くなり過ぎて、幽界と物質界のバランスが保てなくなったために、地球が一旦リセットされるという見方もある。

現代には、日々の生活を続けながらでも、霊的に生きることの意味を探求する楽しさがある。

自分の死を覚悟したからと言って、他人にも同じことを覚悟して欲しいと思うことはない。

心の奥底では、持続不可能になる常識を持ったままの他人がどうなるかは、自分に関係のないことだとも思っている。

それぞれの人が自分がどう生きるかを判断したということであるならば、それを尊重する以外に道はない。

多くの人が、どう生きればよいか分からないから常識に従って生きようとするのだろう。

誰しも生まれた時から死が決まっているのだから、その死期を自分で早めたとしてもそれほど大変なことでもない。

生きるために必須の、安全な水・食糧、生活インフラが無くされようとしている今であるから、どんなことが起きようと驚くことでもない。

感染症、物価高、増税、大量移民、売国、地震、太陽フレア、洪水、干ばつ、火災、火山、ミサイル、戦争、大不況、経済崩壊、預金封鎖、ハルマゲドン。

不安や恐怖は、人にとって都合が悪いことが起こらないで欲しいと願うから、無くなることがない。

人にとって都合が悪いことは必ず起こると想像すれば、不安や恐怖は無くなる。

一種の諦めであり、一種の悟りであるかもしれない。

人にとって都合がよいことが正義であり善意と考え、人にとって都合が悪いことが悪であり悪意であると考えるから、不安や恐怖が無くなることはない。

自分は正義であり善意であると考えるから、心の奥底で不安や恐怖を誘き寄せている。

本当は、正義であり善意である人など存在しない。

自分こそが悪であり悪意であると気づくから、すべてのことを許せるようになる。

そもそも敵・味方、善・悪といった対義語は、人にとって理解しやすいように作られた言葉であるからあまり意味がない。

実は対義語は同じことや同じものを捉え方を変えただけのことに過ぎない。

正義は悪の中に存在し、天使は悪魔の中に存在する。

悪は正義の中に存在し、悪魔は天使の中に存在する。

善人は悪人の中に存在し、悪人は善人の中に存在する。
見方を変えただけである。

我こそが極悪人であることを潔く認め、極悪人はこの世から去ると覚悟すればよい。

そのことが我々に残された最後の選択肢であるように思う。

言い換えれば、過去に罪を犯してきた罪人であるから今の時代を生きているということである。

それがキリスト教にいう終末期を迎えるということであれば納得がいく。

普通にはない気づきが得られる今の時代に、生きていられることに感謝する。

あなたに向かって言いたい。

「感謝しています。どうか自分を生きてください。」

私たちは今の貨幣による経済システムの中で、教育を受け社会に出て生かされてきた。

今の生活ができるのも、この経済システムを創った金融資本家、別名世界の支配者のおかげである。

お金が物に対する価値を持っているため、そのままでは何の使い道のないお金を生きるための財産としている。

今の経済システムに感謝している。

ほとんどの生活インフラが整い、多くの幸せを感じることができた。

しかし、金融資本家には元々大きな野望があり、その野望を実現するための計画が最近は顕著になっているのだろう。

今までの価値観の終焉。ひょっとすると、今までの文明をリセットして新たな文明に移行することが野望であるかもしれない。

それは世界統一政府として、国境をなくし、全世界の市民を監視、管理していくことなのかもしれない。

それを実現するためには、今の世界人口は多すぎるのだろう。

あるいは特定の性質を持つ市民だけが生き残るようにして、世界人口を調整しているのかもしれない。

誰しも早死にしたくはないので、身の安全を守るために必死になっているところである。

人それぞれ思考は異なるので、どのように対応しているかは千差万別である。

ある意味我々は、今まで育ててもらった、あるいは育ててもらっている親から、これ以上の面倒は見ることができないと言われている子供のようなものである。

それが例えば、早死にするためのことを勧められているといったことであるかもしれない。

我々は自分の親に対して単純に恨みを持つべきなのだろうか。

親には、野望以外のもっと深い事情があると推察することもできないだろうか。

だからと言って親から言われるままに、勧められることを素直に受け入れるということも違うだろう。

子供には子供の考え方がある。

素直に受け入れることが単に自殺行為になる可能性もある。

親の考え方にも理解を示しつつ、子供としての自分の考え方もしっかりと持つ必要があると感じる。

世界が大きく転換するときであるからこそ、親が、子供一人ひとりに考える余地、選択する余地を与えているのが現状であると思う。

死を恐れて、懐疑的に、反抗的に生きることは人生をつまらなくする。

我々はつまらない人生を送りたい訳ではない。

恐れの感情を愛の感情に変えるためには、親の考え方も受け入れ、死も受け入れる覚悟で日々感謝の気持ちで生きることが必要であると思う。

親も子供も誰しもが目的や目標を実現したくて生きているのだから。

そもそも我々はまともな人間として機能していなければ、まともな人間として生きたことなど、ほとんどないということにも気づくべきである。

親から与えられた社会環境下で進路を選択し、暗黙または明示された社会のルールに従って日々を過ごしている。

自分が何であるかもわからず、まともに存在していないことにも気づかず、幻想的なホログラム世界を現実と捉えて生きている勘違い人間であることにも気づくべきである。

どう生きたいかは自分で考えればよいが、死を恐れて愛の感情を手放すことは、本来の人間の姿とは違ったバイオロボに近づこうとする行為になるのではないか。

死を受け入れつつ、この地球という場に感謝を持って生きていこうではないか。

今日一日を生きられる幸せに感謝。

いつの間にか生きていることが当たり前になっているが、この当たり前はいつ崩れ去るかもしれない。

明日死ぬかもしれないということを意識すれば、今日生きていられることがどれだけ有難いことになるか。

何かをしなければいけないと強迫されることなく、何もできなかったと嘆くこともなく、自然に導かれるままにやりたいことをやる。

植物は考えて成長するわけではなく、与えられた環境の中で、その環境に適応するように自然に導かれるように成長する。

植物を見て勇気づけられる理由は、環境に適応して成長する姿に勇気づけられているからだろう。

冬の間、枯れてしまったのかと思った木々が、再び勢いよく成長を始めるこの時期は何とも心地が良い。

ガーデンがある程度完成するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。

造る過程を楽しめれば十分である。

これから先いろんな事が起こるが、生きている限り自分のペースで続けられるところまで続ける。

 

工事中のガーデン

 

庭のルピナス

とても幸せな生活ができているのに、世界が悪い方向にしか変化していかないと確信しているから幸せを感じることができない。

これは本当に勿体ない生き方だと思う。

どうやって幸せを感じるか。

一つの方法が、思考を司る左脳を働かせずに感性を司る右脳を働かせる、というものだ。

自動思考を止めて、感じることに集中する。

確かにこれができるようになれば、起こってもいないことを心配したり、起こると予想されることを想像して落ち込んだりすることもなくなる。

しかし、世界が悪い方向に変わっていくことが見えているにもかかわらず、独りよがりに幸せを感じていればよいのだろうか。

今は金銭的に恵まれていたとしても、近い将来には大恐慌が訪れ、持つ資産はほとんどなくなることも予想される。

今は、お金が人々の生活を支配しているのだから、物価の高騰、税金の爆増によって人々の生活は必ず影響を受ける。

人々は生活していくために、あるいは楽しむために、お金を稼ぐことに必死である。

世界が危機に瀕しているのに、よく平然と仕事がやっていられるな、と思うことがある。

気づいていても気づかぬふりをして平然と日々を過ごす。

誰もが自分の人生のために、社会に馴染もうとして必死である。

善かれ悪かれ、他の選択をすることはできないのだろう。

やがてすべての資産がなくなるという方向性があるのに、それでもお金や資産を増やすことに必死になれるのだろうか。

自動思考を少なくするためにも、予想に逆らうのではなく、予想を受け入れる視点の変化が必要だろう。

人々の貧困化、生活の困窮、次のパンデミック、巨大地震、世界恐慌、戦争、残存する人類の監視管理…、これらは起こってほしくないと思考するよりも、必ず起こると思考したほうが健全である。

起こってほしくないと思うから、本当の幸せを感じる機会を失う。

生活の不自由なく、やりたいことをやって生きていられることが、何よりも幸せである。

これ以上の幸せなど存在しない。

少なくともこれから起こることが確信的に予測できているだけでも幸せなことだろう。

これから起こることを経験するために生きているともいえる。

人間が何であるかを見ていくために生きている。

人間は、高度にプログラミングされた動物に過ぎないかもしれない。

つまり、自由意思など存在せず、一度もまともに生きたことなどないのかもしれない。

まともに生きたこともないのであるから、死ぬのが怖いというのも単なる幻想にすぎないのかもしれない。

本当に月が球体に見えますか。

宇宙が本当に存在すると思いますか。

歴史を正確に教えられていると思いますか。

政治、教育、医療、マスコミ、企業などが人々のためにあると思いますか。

特定の方向に誘導される社会プログラムがあるとは思わないでしょうか。

社会全体が架空の世界観を創り出しているとは思わないでしょうか。

気づいていても気づいていなくても人間は愚かである。

愚かさから逃れることができない。

 

最近は随分と弱気になっていたものだ。

植物を育て自然の中に生きると決めた時には、人生の最期の時だけでも人間らしく生きようと考えていた。

マネーに重きを置き自然を破壊してきたことに対する反省でもある。

現代はほとんどの人が気づかずに自然を破壊している。

自らの意思の有無に関わらずだ。

自然の中に生きるということは、長く生きようと他人を頼らず、自然に朽ちていくことを意味する。

そのことを忘れそうになり、生きていくためにはマネーを獲得する必要があると思いを馳せるから、生きづらくなる。

マネーを獲得するために悪あがきをして生きようとすることだけが人生でもない。

死を覚悟するから、本来の人間らしさを取り戻して生きることができる。

気づいていない人も多いようだが、今の地球(特に西側諸国)では、生きていくことが罪になりつつある。

おかしなことだが、少なくとも生きていくことが罪になるように計画されているといってもよいだろう。

死という恐怖に支配されて生きるよりも、自ら死を見据えたに生き方を選択したほうが、人として自由である。

人間が何であるかも知らずに、ひたすら社会に同調して生きることはつまらない選択である。

 

青紫のルピナスがもうすぐ咲きそうだ。

遠くから見ているとそれほどは迫力がないのに、近距離で写真を撮ると結構迫力があるね。

今年は、これとゴテチャを大量に咲かせることができるかな。

今の時代に、仏教の中庸の考え方を取り入れることができるだろうか。

人間の支配者が計画するデジタル監視社会の実現に向けて大衆が強制的に誘導されたとしても、勝てる相手ではないから敵対すべきではないのだろうか。

各人が自己主張をしなければ、このまま言論統制が強くなり、戦争に導かれ、苦しむ大衆が増えるばかりである。

論理のない自己主張をしても意味がないが、論理による自己主張がどこまで意味を成すか。

論理や正義や証拠はいくらでも作り出せてしまうだろう。

大衆の対立を生み出し、より大衆を誘導しやすくさせてしまう。

対立するために自己主張するのではない。

白か黒、正義か悪、真実か嘘、どちらかに偏ってしまうから対立が生まれる。

対立することなく自己主張するためには、何人、何事にも感謝の気持ちを持つしかない。

どのように求められても、どのように仕向けられても、感謝の気持ちを持って自己主張すれば対立は生まれない。

やり方が非人道的であると思えても、この地球における役割を果たしてもらっていると思えば、自然と感謝の気持ちが生まれる。

地球は多様性の場所である。

仮想現実に気づき人類が本来の姿に戻る必要があると決めつけることもない。

仮想現実のまま人類の意識が未知の世界に導かれることも否定できない。

生かされることが正しく、殺されることは間違いであると自己主張すると、感謝の気持ちが薄れてしまう。

嘘にも正義がある。

どのようになったとしても、本人の意思によって選択したことであれば、対立する気持ちは生まれない。

自分にとって都合が悪いことが起こったとしても感謝するしかない。

仮想現実の中で生きていくためには、どのように見える相手であったとしても感謝するしかない。

いずれ仮想現実のゲームは終わり、今を生きていることに感謝をする日がやってくるだろう。

自然と共に生きることを決意してから1年半が経つ

この世の浄土を求め、田んぼを利用してガーデニング、家庭菜園を行う

命あるまま浄土に行けるか、命を失って浄土に行くか

結果は誰にもわからない

結果を考えたところで目標を見失うだけである

無謀にも思いつくままに、植物を育て愛でるための場所を造るだけだ

この世はまだまだマネーによって支配され続けるのだろうか

いずれ多くの人がマネーの存在意義が変化したことに気づくだろう

今は、マネーを求める日々が続いたとしても長くは続かない

本当は多くの人が潜在的に気づいているのだろう

だけど一人勝手に未知の世界に飛び込んでも何も変わらない

多くの人の意識が変化して、多くの人が本当にやるべきことに気づく時まで待つしかない

その時まで自然が生かしてくれる

人間よりもマネーを優先するか、マネーよりも人間を優先するか

自然よりもマネーを優先するか、マネーよりも自然を優先するか

人間よりも自然を優先するか、自然よりも人間を優先するか

矛盾で嘘に満ちた世界で、大きな対立が起こっている

本来は、自然>人間>マネーの関係にあるのだろう

しかし今は、マネー>自然・人間の関係にあると思える

人間には少なくとも2種類があると考えれば、今は、上級人間>マネー>自然・残りの人間の関係にあるのかもしれない

自然に逆らっては長く生かされることはないと思うのだが……

大切な人の死で気づくこと。

 

人は皆、死に向かっている。

 

そのことに気づかないふりをしているだけであり、生から死は離れたところにあると勘違いしている。

 

死の意味を理解しようとしないから、でたらめな生に飛び付こうとする。

 

そして、人はでたらめな生を本当の生であると思うようになる。

 

でたらめな生は押し付けられた生であり、自ら気づいた生ではない。

 

でたらめな生は習慣・文化を作り、これによって人を強要する。

 

死から離れようと思うばかりに、勧められるままに特効薬を受け入れる。

 

特効薬は本当に生のためにあるのだろうか。

 

特効薬は死を忘れさせるためにあるのだろうか。

 

やがて人は死を忘れたところに生もないことに気づく。

 

本当の生に自ら気づくための特効薬はない。

 

本当の生は創造主が与えるものであり、大地が知っているものである。

 

本当の生に気づくには、自己の力・自然の力に身を委ねるしかない。

周りを気にしないこと、背伸びをしないこと、無理をし過ぎないことに幸せがある。

周りの価値観を気にすると不幸な気持ちに意識が行きかねない。

色んなことを制限されているようにも思える。

暗黙に禁止されていることが多いように思える。

周りを気にせず、心の奥底から湧いてくる感情に寄り添えば、行き着くところは愛しかない。

憎しみも、束縛も、支配も、嫉妬も、攻撃的なところも、表面的な考え方から生じてくる。

無形の存在から生まれ、ほんの一瞬過ごせるだけの地上世界で愛に目覚めず、カネに翻弄されるようでは、もったいないことである。

一度、愛の感情に目覚めれば、いつでも愛の世界に帰って来ることができる。

今まで愛と勘違いしてきたものは何か。

感情を満たすことが仰々しくも愛と勘違いしてきた。

偽善であることも愛と勘違いしてきた。

与えることが愛であると勘違いしてきた。

愛の感情に目覚めれば、与えること、与えられることに関わらず、生きることそのものが愛であることに気づく。

いつでもそこに在るものが愛であった。

宗教も道徳も感情も超えたところに在るものが愛であった。

存在していることを喜ぶことが愛であった。