今の時代に、仏教の中庸の考え方を取り入れることができるだろうか。

人間の支配者が計画するデジタル監視社会の実現に向けて大衆が強制的に誘導されたとしても、勝てる相手ではないから敵対すべきではないのだろうか。

各人が自己主張をしなければ、このまま言論統制が強くなり、戦争に導かれ、苦しむ大衆が増えるばかりである。

論理のない自己主張をしても意味がないが、論理による自己主張がどこまで意味を成すか。

論理や正義や証拠はいくらでも作り出せてしまうだろう。

大衆の対立を生み出し、より大衆を誘導しやすくさせてしまう。

対立するために自己主張するのではない。

白か黒、正義か悪、真実か嘘、どちらかに偏ってしまうから対立が生まれる。

対立することなく自己主張するためには、何人、何事にも感謝の気持ちを持つしかない。

どのように求められても、どのように仕向けられても、感謝の気持ちを持って自己主張すれば対立は生まれない。

やり方が非人道的であると思えても、この地球における役割を果たしてもらっていると思えば、自然と感謝の気持ちが生まれる。

地球は多様性の場所である。

仮想現実に気づき人類が本来の姿に戻る必要があると決めつけることもない。

仮想現実のまま人類の意識が未知の世界に導かれることも否定できない。

生かされることが正しく、殺されることは間違いであると自己主張すると、感謝の気持ちが薄れてしまう。

嘘にも正義がある。

どのようになったとしても、本人の意思によって選択したことであれば、対立する気持ちは生まれない。

自分にとって都合が悪いことが起こったとしても感謝するしかない。

仮想現実の中で生きていくためには、どのように見える相手であったとしても感謝するしかない。

いずれ仮想現実のゲームは終わり、今を生きていることに感謝をする日がやってくるだろう。